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議論の続き(補足&修正)『誰も知らない夢の果てから』さらなる考察
『誰も知らない夢の果てから 関係と情報の哲学の体系的記述』の著者である松笠遥氏と面談をしましたが、その後、補足でやり取りをしたりしましたので、補足ということで+αの状況をメモします。このたびは、著書を読ませてもらい、議論をし、理解を深めることができたことに感謝しています。
債権、債務の比喩
まず、私達は宗教的真理について議論しました。話をするにあたり”真理”とは何か定義をしてから議論しませんでしたが、”真理”は国語的、哲学的、宗教的に定義が多岐にわたる可能性があるので、比喩で話が進められました。
著者の考え方を以下にまとめてみましたが、ここは難しいところです。
違ったらごめんなさい。
その比喩が、債権、債務の話であるのですが、バランスが取れているのは大雑把な言い方であり、債権は常に誰かの債務であり、債務は常に誰かの債権なわけであり、これを視点を変えると2つの立場があることを意味し、その立場が「関係の真理」と「存在の真理」を分けることになると考えられます。
①の世俗の立場に立つのが関係の真理
世界の中で「我」に立つ立場。様々な喜びがありながら、欠乏や欲望に悩まされる。
②の世俗を抜け出した視点に立つのが存在の真理
「我」を捨てて「世界と一体化」するという視点に立つ立場。それだけでは社会の中で生きていくことはできませんが、ある種巨大なものに身を任せることができるもの。知性(比較)はある種の欠乏をもたらすものですが、我を捨てて世界と一体化するとそれが消えてしまうので宗教的な安らぎを得られるのではないか、と考えられます。
宗教の真理については、私も著者も慎重であるべきだと考えています。それは、上記の考え方は宗教の真理のうちのある一つのあり方であってすべてではないと考えられること、関係の外部には他にもあり方があるし、宗教自体は神話のように体系立てられた部分もあるからということですが、全くその通りだと思います。
情報の世界にも同様の性質がある
情報についての補足説明がありそれは引用します。
情報は世界の中のあるものと他のものの間には存在するものですが、世界の総体それ自身に対しては存在しません。物理の世界において、あらゆる意味で全く同一のものは、自己自身に対して、情報を伝達されるという契機自体が存在しません。なので世界全体は世界全体それ自身に対して情報を持たない。情報を伝えるまでもなくそれそのものであるからです。(著者からの私信)
私は、”この世界はデータである””この世界はシミュレーションである”と言ったときのデータの集合体として”この世界は情報である”(つまり、ものそのもが情報)と思っていますが、著者は、関係性を重視していることから、関係性が情報であり、情報の伝達という視点からも考察をされての情報のようなのであり、この点情報の対象が異なるようなので今後の議論には注意する必要があると思います。考えてみれば、当然のご指摘であると思います。
正しさについて
正しさについても補足の説明がありました。面談のときにちゃんと説明ができず、誤解をさせてしまったかも知れないところです。
「正しさ」が相対的という話は、フィクションまで含めたお話なので、あまり科学の正しさと、特定して語ることではないのかな、と思います。何に対して言及するかによって正しさは変わるというのは単純な事実だと思っていますし、科学が関係のネットワークだというのは正しいと思っていますが。(著者からの私信)
「真理」とは、国語的な意味としては、「いつどんなときでも変わることのない、正しい物事の筋道や真実の道理」であるとされます。そのため、対象として考察しているものが真理なのかどうかについては、まずは正しい物事の筋道や道理の真実性が求められます。そのため、対象が「正しい」かどうかというのは重要な指標になります。
私の考え方は、科学は、新しい発見や発明に対してその妥当性の説明が求められたら、既知の正しいとされている事象と結びつけることで正しさを担保する営みであると考えています。そのため、関係のネットワークは正しい必要があると思っています。
科学の真理と宗教の真理との関係
まず、引用します。
科学の真理と宗教の真理は確かに別の種類のものであると思います。互いに争う領域があるかどうかというと、ある意味あるのかもしれないなとは思いますが、・・・(略)・・・。(著者からの私信)
私は、面談のときに科学と宗教について競争しているところがある(争っているとも言ったかも知れませんが)ことについて、ちょっと勘違いしていたところがあります。”真理”というのは国語的に「正しい物事の筋道や真実の道理」という意味なので、”真理”の追求という点では、科学と宗教で共通する筋道や道理があっても不思議ではないと思いました。
自然哲学構想
唯物論的科学が限界に来ているという感じる今日このごろ、自然哲学的に非唯物論的なところも考えてみたいと思っています。上記の各テーマは、いずれも重要なテーマになるところだと思っています。