㉝国語の教科書の詩人を思い出してうっすら涙ぐむの巻
いろいろnoteの記事を読んだりしていると、詩を書いている人が意外に多いことに気が付きます。
私は今では、基本的にいわゆる”詩”というのもにはある種の面白さを感じていますが、昔、国語の教科書なんかに載っていた詩や詩人という人には、なんとも不思議な感じを持っていました。
最初に一応お断りしておくと、私は詩を書く人をとても素直で純粋な自己表現をする人としてある種の尊敬の念を持っていることをお伝えしておきます。
そのうえで、なんですが、私はいわゆる詩人という人にはなんとも得体のしれないものを感じていたんですね。
で、またしてもお断りなんですが、私は、現代の詩人=詩を書く人は専業では存在するのは難しいとも思っているんですね。
詩人は、あくまでも本業があっての詩人というわけです。
いや、表現方法が詩のみであっても全然いいと思うんですが、いわゆる詩を書くことのみだと、それは逆に詩人になり得ないのではとも思うんですね。
例えば、普段は土木作業員。でも実は詩人。
全然いいと思います。というかむしろその詩を読んでみたい。
普段はお花屋さん。でも実は詩人。
普段は浄水器の飛び込み営業。でも実は詩人。
普段は大学教授。でも実は詩人。
こういうことであれば、全然いいと思いますし、むしろその詩を読んでみたいとも思います。
しかし、肩書がただ”詩人”というのは何とも得体のしれないものを感じるんですね。
私の個人的なそういう詩人のイメージは、
昼間にどこに行くともなく散歩している。道路の脇に小さなタンポポの花を見つけて近づいてまじまじと見つめ、うっすら涙ぐむ。
また、
夕方にどこに行くこともなく散歩している。歩いていて、気が付いたら道で歩いていたアリを踏んでしまったことに気が付く。つぶれてしまったアリを見てうっすら涙ぐむ。
またまた、
昼間から家で座っている。妻が出してくれたお茶を一口すすり、うっすら涙ぐむ。
どうですか。
かなり得体のしれない感じです。
国語の教科書に、よくその詩の作者のプロフィールが書いてありましたが、そこにおっさんの顔写真と共に”詩人”と書いてあったりすると、途端に何とも言えない不可解さが感じられたりしたんですね。
さて、そこにいくと、notoに存在する現代の詩人たちは、とても洗練されていてその心情がその詩から痛みと共に伝わってくるようです。
相対的に、笑いを生むようなものは少ないようですが、痛みに関してはなかなかのものだと思います。
心情をストレートに伝える手段として詩というものは意外に有効なのかも、と思い直している今日この頃です。
もちろん私はあの「酔いどれ船」を読んでもなにを書いているのかよくわからなかったクチなので、あまりあてにはなりませんが。
※)ちょっとふざけた感じになってしまいましたが、実際のところ色んな記事(作品)を読んでいると、お、これはちょっとしたものだぞ、と思うものも多いですよね。時間に任せてついつい色々と読んでしまいます。詩の定義がよくわかりませんが、私も詩を書いてみようかな。なんちって。フォロー/スキくれた方ありがとうございます。励みになります。