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やらなくてもいいけど
やってみたいことを
自分に許すのは
無意識深い魂の望みを
この思考と体で体験させることに
繋がる
「そんなの無駄だ、やってどうする…」
などの自分の思考を
「そう思うのも無理ないが、でも私は私をいきたいよ、大丈夫大丈夫、これが今の最善」と包み込みながら
魂の願いを育む道
…
それでは
本日も昨日の原稿の続きを
↓
…
植物に例えてみたらどうだろう。魂の願い=種と見て、願いが種が、根を張り、茎を伸ばし、葉を広げ、花を咲かせ、実りとなり、種で、次へと。
そういう生き方が最善を生きるというイメージ。
植物は他者のために、枝葉を広げているわけではないが、その木陰で誰かが一休みしているかもしれない。花はただただ咲いて、そこに誰かが意味や価値をみたり。そのうち自然の流れの中で、実り、誰かのお腹を満たしていくこともある。
自らの成長の過程で、誰かへの、次への豊かさへと繋がるような。自らの成長は結果的に誰かのためになっている。
それが魂の願う自分と自分の世界を創造したいということ。
しかし、その種がなんなのか、すっかり忘れて生まれ落ち、歳を重ね、生活はつづいて。
幼い頃から、その種を自覚し一筋に育て続け、早いうちに花を咲かせ実る人もいる。
ただ、曖昧の時期も長いと、曖昧だから、時々にくっきり咲いている、誰かの影響を受けては、頑張って咲かせてみたり。だが誰かの花に真似ようと、誰かに認めてもらおうと、咲く花は実りの前に枯れていった。だからこそ、出会える景色もあるけれど…
もういいよ。
自分の種を育てよう。それにはまず、頑張る方向に力を込めるのではなく、緩める方向。力をぬいて、そっと心にきいてみて。
「あなたは、どんな自分になって、なにをしたくて、どんな気持ちを味わいたくて生まれてきたの?」
今まで、曖昧でも、なんとか花咲かせよう、実らせようと頑張ってきた自らを愛しんでおつかれさま、もういいよ。自分を生きよう。と、その種が見えるまで、何度でも問いかけたらいい。そして、その種を自覚して、そこから私という花を咲かせよう。
私はどんな種なのか、この本がその種の自覚の助けとなることを確信している。
そして、あなたの種を自覚する、あなたの心へも問いかけの一助となることも願っている。
この普通に生活できて平凡な日々は、なんとも、ふかふかで恵まれた土壌なんだ。
私は私の種を、あなたはあなたの種を、育てることを満喫できますように。
そして、出会い、枝葉や花を交換しあったり、実りを分かち合ったりしながら、互いの人生を賞賛しあい、喜び合えますように。
そう、私なんて、私なんかがという思いは、肥やしになる。誰かの真似して、認められたくて咲かせた花も、朽ちて肥やしになる。
さあ、今から今から
のびのび、ひょっこり、ぐんぐん、わさわさ、ぱー、たわわにたわわに…。