エポニーヌを考える
首をながーくして待っていた、ミュージカル『レ・ミゼラブル』!
先日、ルミーナさん演じるエポニーヌの「オン・マイ・オウン」を観て聴いて、私の中のこの場面からのエポニーヌの印象が変わったので、ここに書き残します。ネタバレしかありません。(どうか、ご本人の解釈を己が捻じ曲げていませんように…)
ちなみに、映画鑑賞済、2019からミュージカルの観劇を始めた原作未履修オタクです。これまで、エポニーヌが「オン・マイ・オウン」を歌う・革命参加の流れを「結ばれなくても、愛するマリウスのためなら命を懸けられる」という面だけで捉えていました。しかし、今回の観劇を経て、マリウスへの愛はもちろん、彼女は死に場所を求めていたのではないか、と考えるようになりました。
今更気付いた感がありますが、観劇中に衝撃を受けたので、「オン・マイ・オウン」の歌詞から考えていきます。(歌詞は歌唱披露動画から引用しています。お二人の歌、本当に素敵です…!)
動画では歌われていませんが、舞台では『また、あたし一人 行くところもないわ』という歌詞から始まります。マリウスと一緒にいる自分を想像しながら、行くあてもなく寝静まった夜の街を歩くエポニーヌ。真っ暗な舞台の中、響くハープの音が寂しくも綺麗で、エポニーヌが夢に浸りながら幸せそうに歌うんですよね。誰もいない真っ暗な夜に大好きな人を思い浮かべることでしか、幸せになれないのかと思うと本当に切ない。これまでも、辛いことや孤独を感じる度に、こうやって乗り越えてきたのかもしれない。マリウスだけが彼女にとっての救いで、世界を輝かせてくれる存在であることが痛いほど伝わってきます。
『知ってる、夢見るだけ』という歌詞から現実に立ち返り、そこからの誰にも言えないエポニーヌの心の叫びが本当に胸に刺さります。大好きです。
ここでポイントに感じた歌詞が『一生 夢見るだけさ』です。コゼットとマリウスが結ばれたことにより、自分が現実でマリウスと結ばれることはないとの自覚、そして、このことから、エポニーヌは夢を見ることをやめたのではないか、と考えました。マリウスは劇中で「堅物マリウス」と言われるくらいですから、女の影はなく、エポニーヌもいつかマリウスの恋人になれるかも、と希望を持っていたのかなと。しかし、コゼットの登場により、その希望すら打ち砕かれてしまった。エポニーヌにとって、マリウスの隣にいる自分を想像することは「幸せ」で「救い」である。しかし、叶わないと自覚してしまった瞬間、それは「絶望」になったのではないでしょうか。好きな人の恋人にはなれず、世界は色褪せ、居場所もない、幸せにもなれない。だから、死に場所を求めてバリケードに行った。ただ、『愛してる 愛してる 愛してる』の歌詞にある通り、叶わないとわかっていても、マリウスへの愛が消えることはないため、一人どこかで死ぬわけでもなく、マリウスの側に戻ってきたのだと思います。
2幕最初のエポニーヌはバリケードに向かう学生たちに紛れて、わざとマリウスに接近するんですが、革命が始まる時はマリウスの様子を伺いつつ、隠れていて、マリウスの危機にだけ咄嗟に姿を出して、撃たれ…その後もマリウスから逃れるように、傷を見せないようにしていて…これも『あの人、あたしを要らない』という考えと献身的な愛からの行動に思えて本当に切なく、この後の「恵みの雨」でマリウスから『愛で治せたならば』と言われた時のエポニーヌの目の輝きに、こちら側がなんともやるせない気持ちになります。
『あの人、あたしを要らない』という歌詞、英語版では『Without me his world would go on turning(あたしがいなくても、彼の世界は回り続ける)』です。そりゃ、好きな人の世界に自分はいないと思ってきたのに、ちゃんと存在していたことがわかっただけでも嬉しいよね、本当に道のりが遠すぎた…最後の最後に救いがあったと。
私はミュージカル作品の中ではレミゼが一番好きなので、公演に行く度に今日も楽しかったと思える幸せな日々を送れていて、本当にありがたい限りです。まだまだ公演は続くので、また気付きがあったら、ここに残したいですね。