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朝井リョウ著「正欲」を丸飲みして吐き出した文章⑥(さらに後日談)
2025年1月27日
夜勤明けである。4年前の私はこんなこと考えてたんだ、と見返すとまた違う感覚になるから不思議である。確かに、この時の思考の半分以上が希死念慮に占拠されていた当時、このように試行錯誤して生き延びてくれたおかげで今の私が生きている。だから、この当時の自分に感謝しないといけない。ありがとう、私。だけど疲れた、私。夜勤で。(寝ろ)
某日、実家に帰って、こんなものを発見した。
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なんとも怪しげな封筒である。表には、「『明日死にたくない』と思えなくなって、感情のピークから外に吐き出しそうになった時だけ見る用」と書いてある。ますます怪しい。(語彙力)
この封筒の中身は、これまでつらつら書いてきた文章をスマホのメモ帳に載せてご丁寧にスクショして印刷したものである。もしここまで読んでくださった方がいるなら、聖人に違いない。深く感謝申し上げます。
捨ててしまおうかと思ったが、書き起こしてみると、記憶にはあるが今この身体にない感覚が残っており、この感覚を形に残しておきたくなった。
それを読んでみて、まず、自分のことしか頭にないな、と初手でそう思った。これはプラスな意味でもマイナスな意味でもどちらでもなく。ただ淡々とそう思った。その気付きのおかげで今があるのかもしれないが、それはおいといて。
実際、「正欲」で扱われている内容は、現実的な法律における課題、抽象的にいえば、社会と個人の狭間で生まれる歪みを挙げていたと思う。今、物語を思い返すと、そんな印象を受ける。だが、当時は個人的な感情のほうに(むしろそこだけ)焦点を当てていた。「社会的な見方をするようになってしまった、自分。」と新しいメガネを持っていることに改めて気づいた。しかし、個人的な思考や感情がその現象の根幹をなす重要な部分である。そして、当時は思い浮かばなかった発想が自分の頭の中にあることに気づいた。それは、現実的に苦しい思いをする人は苦しいままでいいのか、という感情だ。
この疑問はなんてナンセンスなんだろう。私は私に「貴方は苦しいままでもいいですか?」と言われたら「はーなんだてめぇ、煽っとるんのか」ということを脊髄反射で言ってしまいそうですが、そういうことではなくて、もうもはやその本を飛び出して(?)、全く新しい世界観で生きてもいいのでは(?)と。2025年現在、あの頃よりも、もっと日本はグローバルになり、パソコン1台だけでも仕事ができるようになり、これからもどんどん世の中が変化していくだろう。社会と個人の関係性はいつか今とは違う形になるのではないか?オルダス・ハスクリーの描く「素晴らしい新世界」のような、ある種SF的な世界。科学技術が進歩し続けるのと同時に加速する目まぐるしい社会の変化に人間はいつもコントロールされている。そんな中、これまでマイノリティと自覚してきた人たちがどうなっていくのか。少しでも息がしやすくなればいいなと思う。自称ADHDグレーゾーンな私も含めて。
これはあれですね、朝井リョウ著「生殖記」を読んだ影響ですね。我、本当にわかりやすい。すぐに影響を受けるんだからー。
というわけで、穿った見方とか言ってたけど、今は正直何にも考えてないし、穿るって何?、欲って何が悪いの?、欲は生きる理由じゃんと4年後には思考変動しているうなでした。あの当時の私は「正欲」という劇薬がないと深い希死念慮を浅い希死念慮にすることができなかったので貴重な治療薬でした。どんな方法でも生き抜いてよかった。まだまだ苦しい人生は続きますが、小説を読めるうちは生きていたい。どうか推し作家さんが作家を続けてくれますように。