自分にとっての「主体性」
『7つの習慣』の読書メモとして。
よろしければ、皆さんの体験やお考えなどを聞かせて欲しいです!
「ずっとどうしようもない状況だったんだから悲しくなるのは当然でしょ」
「自分のこの(嫌な)性格は、幼少期の親の自分に対する態度のせいだ」
「あの人にひどいこと言われたから、こっちも痛いとこ突いてやろう」
振り返ってみると、度々周りのせいにしてたなと思います。
物事には積極的に取り組むほうだったから、自分は主体的な人間だ、と勘違いしていました。
主体性の意味をわかっていなかった。
『7つの習慣』の著者コヴィーさんは、外部の刺激に対して反応してるだけの状態をやめなさいと言います。
人間には、刺激に対して「反応を選択する」力があります。
「悲しくな」ったのも、「自分のこの(嫌な)性格」も、自分が選んだこと。さらには、「ずっとどうしようもない状況だった」ことも、「あの人にひどいことを言われた」のも、すべて過去の自分が(無意識であっても)してきた反応の選択の結果です。受け入れるには勇気がいりますが。
私は完全に、外部の刺激に反応しているだけの人間でした。
気付かないうちに選択を放棄していたんです。
そのほうが楽です。今の自分の状況を外部の責任にすることができる。
でも、選択の放棄は、人生の放棄と変わらないなって思うんです。
自分の手で選択すると、もちろん選択の責任は自分に課されます。
「自由があれば、責任が生じるし、責任があれば、自由が生じる」(哲学者サルトルの言葉)
私は、自分の人生を他人に預けたいとは思いません。
他人の目を気にして他人軸で生きていくのは嫌です。
でも、そうやって自分の人生を自由に生きるためには、自分で責任を負わないといけないんです。
責任を負うって一見なんだか重荷のようですが、今はむしろ嬉しいことのように感じます。
今のこの状況もあれもこれも、間違いなく自分の選択の結果だ。
反応を自分の意思で選択しなかったのも、これまた自分の責任だ。
そう思うと、自分の手元に舵があると感じる。
舵を動かせるのは自分だけで、どの方向に向かいたいか、自分で決められる。
船がとんでもないところに漂着しても、それが自分の選択の結果なら、受け入れてその場を楽しめるかもしれない。
そこを楽しめるかどうかも、自分で選択できるのだ。
これってまさしく自分の人生を自由に生きている状態なんじゃないかなって思うんです。
そういえば、すごく恥ずかしい話ですが、「自分は他人の鏡だ」って思ってた時期がありました。
自分について考えていると、こういう結論に行き着いたんです。
この時は今よりもっと無知で、これが他人軸で生きていることと同義だと分かっていませんでしたから、「自分とはこうだ!」っていうのがひとつ見つけられて、ちょっと嬉しかったことを覚えています。
しかも、あろうことか友人にこのことを話したこともあります(穴があったら入りたい…)。
この頃の自分の心はたぶん、他者に対する恐れと前述の責任放棄の詰め合わせでした。
他者に対する恐れは、自分の対人関係における自信のなさから生じていたと思います。
怖いから、「自分の態度・行動はあなた次第ですよ」と相手を脅し、制限しようとしていたのだと思います。
あなた方の責任ですよ、と責任転嫁し、自ら進んで他者の奴隷になっていました。
これからは、周りの人や状況のせいにせず、自分で選択し、その選択に責任をもち、何があっても自分が受け止めます。
それが自由ということであり、自分の人生を生きるということなんだと思います。
「選択の自由を自覚し、自分の人生に責任をもつ」
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