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【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第39話

第39話 においでわかる(最終話です)

「あ」
 と妻が言い、肘で私の右腕をツンツンとつつきます。
 ん? 妻の弥生人顔を見下ろすと、目線を前方へやり「見ろ」と促してきます。私は前を見てみます。すると、前方から上下黒い服の若い女が歩いてくるのでした。再び、妻の顔を見ますと、妻は小さく首を振ります。
 10秒ほどして、黒い服(黒い長袖Tシャツと黒いズボン。普通ばい)の若い女とすれ違いました。そのまま歩き、もう聞こえない距離になった頃、妻はやっと口を開きます。
「においでさ、わかるんだよ」
「何? 今の全身黒の人?」
「そうそう。今の、演劇人だよ。演劇のスタッフ。多分、音響さんか照明さんだな」
「へえ……」
「この駅、確か小劇場があるんだよねぇ」
 ふむふむ、なるほど。
 我々夫婦とトキのきいちゃんは今週末も散歩をしています。実際、散歩にはまっているくらいです。と言いますか、私が「2時間待機」のため、遠くへ行けないせいなのですが。今日は2駅歩いてきました。T京は駅と駅の間隔が短かかねぇ。
 お。いい匂いが漂ってきました。前方に行列ができています。通り過ぎる時見ると、有名なラーメン店なのがわかりました。
「おいしそうな匂いがするばい」
「食べたい?」
「並びたくなか」
「ふうん」
「きいちゃんねぇ、においわからないの」ときいちゃん。
「えっ?!」
 私と妻は同時に、トートバッグから小さな頭だけ出しているトキのきいちゃんを見ます。因みにバッグは妻が肩から下げています。
「そりゃそうだよねぇ、きいちゃん、ラーメン食べたことないんだから……」
 妻は悲しげな顔でこう言いますが、ラーメンだけじゃなく、きいちゃんは何も食べたことがないわけでして。かわいそうです。いや、食べなくてもこうして生きているのだから、むしろ効率的身体だと言えなくもない。
 私達は缶車のある駅に戻ってきました。
 歩いていきますと、前方から自A官が歩いて来るのが見えます。もしかしたら、皆さんは迷彩服の男を想像しましたか? それが、違うのです。私服です。今日は日曜日で、あの自A官も休みなのでしょう。ここは駐屯地の敷地内ではなく、T京の路上です。
「においでわかるばい」
 妻は私の方を見て、ふふふと笑います。
 我々と自A官がすれ違い、もう聞こえない距離になってから妻が口を開きます。
「あたしもわかるようになってきたよ。髪がすごく短くて、特に後ろがすっきりしてるよね。姿勢がすごくいいし、肩とかがっちりしてる」
「におい?」
「うん、においかなぁ…」
「きいちゃんねぇ、においわからないの」
 きいちゃんがまた同じことを言います。困ったなぁ、どうしたら、においってわかるんだろう? いや、そもそもきいちゃんに嗅覚はあるのだろうか? 視覚はある、聴覚もある、喋ることもできる。ということは、実は嗅覚もあるのだろうか? 私が悶々としていますと。
「わっ、きれいぃ~」
 と妻が無邪気に声をあげました。妻はとても花が好きです。花を見ればどれでも「きれい」とか「かわいい」「すてき」「好き」とか言います。なんでも、お義母さんの影響だそうで。
 人様の庭の花であるのに妻は接近し、トートバッグをずいと前方に差し出しきいちゃんにも花を見せています。
「ねえねえ、見て、きいちゃん。この花、何かに似てない?」
「いちごぉ、にてるぅ」
「うんうん、苺みたいだね。確かこの花、千日紅せんにちこうじゃないかなぁ。別名がイチゴ草だって、前に友達が言ってた気がする」
 妻は大げさにクンクンと匂いを嗅いで見せます。それから、きいちゃんを極限まで花に近づけてまして。
「ほら? いい匂い?」
 きいちゃんは黙ってしまいます。聞こえるのは車の音のみ。
「きいちゃん?」
 妻がきいちゃんの小さな顔を覗き込みます。きいちゃんのガラス玉のような目は、外にいるせいか、缶車内よりもキラキラと光っているように見えます。
「におい? におい、においする」
 かわいらしい男児の声が確かにそう言いました。
「おはな、におい、もっともっと」
 それから、缶車までの道を右に左に歩きながら、妻はきいちゃんを様々な花に近づけ匂いを嗅がせたのです。すれ違う人は一瞬怪訝そうな顔をしますが、すぐに無表情になりすれ違っていきます。私は妻達のあとをついて歩いていたのですが……
 妻が手招きしています。
「あっちゃんも、嗅いでみなよぉ」
 きいちゃんも呼んでいます。
「あっちゃも、あっちゃも、いいにおい」
 私は名前も知らない花に鼻を近づけます。私、筑後川敦、幼少期からの記憶を辿ってみて、おそらく生まれて初めてした行為だ、と思いました。
 幸せばい……
 これが幸せというものだろう。妻の美花とトキのきいちゃんが楽しそうに笑って、私のことを見ています……
 え~~、皆さん。ゴホン、ゴホン。どうなのでしょうか? 昭和の頃と違い、多様性が尊重される昨今、私と妻とトキのきいちゃんのような家族もあり、でいいでしょうか?
 私達は次の転勤まであと2年と8ヶ月、あるいは可能性は低いのですが1年と8ヶ月あります。それまでは、こうして缶車のまわりを散歩して楽しみたいと思っています。
 1話から39話まで、私達家族の長い話におつき合い下さいまして、誠にありがとうございました。
 それでは、皆さん、またいつかお会いしましょう。
                    防A省 技官 筑後川敦
追伸
 美花です。皆さん、ありがとうございました。また、会えるといいですね。
 きいちゃんだよ。みんな、まったねぇ~。
                           完


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