【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第23話
第23話 妻の耳鳴り
皆さん、大変です。妻が耳鳴りがするというのです。これは大変なことになりました。
あ、失礼しました。筑後川敦です。
むむ……。皆さんの中には少々引いている人もいるようだ、と今気づきました。確かに、耳鳴りで死ぬことはないでしょうから、大げさでした。まず、すみやかに耳鼻咽喉科へ行くのが賢明でしょう。
「明日、耳鼻科に行ったら」
と妻に言いますと、知らない土地の病院なんか知らない、缶車の奥さんにおすすめの病院を聞いてみようか、でもタイミングが難しいし、わざわざピンポンを押して聞けないよ、どうしようかな、それに病院に行っても言葉が違うから話しにくいし……と、ぐずぐず言っています。まったく困ったものです。耳鳴りのせいで気弱になっているのでしょうか?
まあ確かに、私も、転勤のたびに病院を探すのは心底煩わしいです。自A官の場合は、中の医者に診てもらえば費用はかかりません。訓練や演習などで怪我等が多いためでしょう。しかし、私のような技官はそうではありません。缶車の近くの病院を探して行きます。いつも体調不良のなか、新規開拓することになります。
妻はうかない表情で、きいちゃんのぬいぐるみの長い嘴の先をちょんちょんとつっついています。きいちゃんは、ちょんちょんに合わせてこんなことを言ってます。
「みかちゃ、おみみのなか、すずめさん、ちゅんちゅん、いーち、ちゅんちゅん、にー、ちゅんちゅん、さーん、ちゅんちゅん」
うーん、妻の美花が耳鳴りのことを、耳の中ですずめが鳴いているようだと説明したのでしょうか?
私はスマホを手にとり、「耳鼻咽喉科」と音声入力をし検索します。(昭和・平成の途中まではスマホなどなく、探すのが大変でした)いつもだったら、「あっちゃんは、すぐ検索するから、けんさく君」などとからかってくるのに、今日の美花はおとなしい。しょんぼりした様子は見たくありません。
やはり、これは筑後川家にとっては一大事です。このようにして、平穏な日常というものは簡単に壊れてしまうのですね、皆さん。
お騒がせしてすみません。筑後川美花です。
先日、夫が私の耳鳴りのことを喋ってしまったら、心配してくれたり、病院の受診を勧めてくださったりして、本当にありがたかったです。ジーンとしちゃいました。本当にありがとうございます。
その後、私は耳鼻咽喉科に行きました。夫がスマホで検索して、まあまあ近くの病院を探してくれました。受付で「初診です」と言うとき、少し緊張しました。なぜなら、この土地の人達の日常会話と、私の言葉のアクセントが全然違うからです。
演劇人だったときは、アクセントは非常に気になるものでした。俳優たち、とくに地方出身の彼らは「アクセント辞典」を持っていたものです。
私は大量の台詞を書きましたが、それらはいわゆる標準語のお芝居ということになります。ほとんどの演劇が基本的にはそれでしょうか。翻訳劇も標準語ですね、考えてみれば。方言を生かした地方劇団もありますし、あえてお国言葉で戯曲を書く劇作家もいます。それぞれ、標準語ではとても表現しきれない味わいを出していたのを思い出します。
日常生活では、私の言葉はこの土地では浮いてしまいます。あ、こいつは他所から来たな、とすぐにばれてしまいます。
更に、保険証問題もあります。私の保険証は防A省共済組合のもので、券面にしっかりと書かれています。だから、ああ、この人、防A省の家族なんだ、とばれてしまいますから、なんだか気後れしてしまうのです。受付の人は仕事なわけで、近くに駐屯地がある土地柄、慣れていて別に何とも思っていないかもしれません。私達が転勤族なのも知っていて、言葉の違う家族たちがやってくることもよくあることでしょう。
だけど…、はあ~、診察前なのに、少し疲れてしまいました……
やっと、診察室に呼ばれ、医者の先生に耳鳴りの症状を話します。先生はよく聞いてくれ、質問もしてくれます。なんというか、ずいぶんのんびりとしています。語尾を伸ばすから余計にそう感じるのかもしれません。私が今まで持っていた医者のイメージと随分違います。なんだか少しだけほっとしました。
「検査しまひょか」
ということになり、未知の検査をいくつも受けました。その間も説明はすべて土地の言葉です。もちろん意味はわかります。日本ですからね。世界には言語が7,000前後(諸説あるそうです)あるらしいのに、日本国内でもこの調子なわけで、なんだか眩暈がしてきます……
結果が出るまで、私は待合室の長椅子の端に座っていました。聞こえてくる土地の言葉に耳を澄ませます。だけど、なんとも表現し難い高音がずっと耳の奥を流れています。耳鳴りです。それでも、耳はこの場の人達の話し言葉を必死に覚えようとしているのかもしれません。
再び呼ばれ、診察室で先生から言われた言葉は衝撃的でした。あ、こんな書き方では誤解させてしまいますね。検査結果は問題なかったのですよ。言われたのはーーー
「加齢によるものですぅ」
病気と全く違う、ある意味、病気以上のショックを受けました。ストレスとか、音楽を低く流すとか、言われたような気もしますが、先生の言葉は私の体の手前を滑ってゆくようで、断片的にしか耳に入ってきませんでした……
会計を済ませ、処方箋を持って、私はよろよろという感じで病院を出ました。(冷静になってみれば、何かの病気でなくて本当に良かったと思えるのですが、それはもっと後のことでした)すぐそばの薬局へ歩いて行き、薬を受け取りました。
ピッ。車のキーを開け運転席のドアに手をかけながら私は身をかがめて助手席を覗きました。
え⁈ ええ⁈
慌てました。なぜなら、助手席に置いてあった筈の、布製のトートバッグが見あたらないからです。
きいちゃん⁈
バッグの中にはきいちゃんが入っています。私は大急ぎで運転席のドアを開け、座席に片膝をついた瞬間、はっとしました。グスッ、グススッ…という小さな泣き声が聞こえたからです。
「きいちゃん⁈」
すぐに返事はなく、しゃくりあげるような小さな男の子の声が聞こえます。なんて悲しそうなのでしょう……
私はガバッと身を乗り出すと、助手席の足元に落ちているトートバッグを必死で取り上げました。運動神経ゼロの私としては、ものすごく素早かったと思います。ところが、きいちゃんのぬいぐるみの体はトートバッグから滑り落ちてしまったのです。
火のついたような泣き声があがりました。
「ごめん! きいちゃん!」
私は必至できいちゃんのぬいぐるみの体を掴み取ります。その時、初めて、
「み、みかっちゃ……」
ときいちゃんが私の名を呼んだのです。私はもうたまらなくなって、ぎゅっときいちゃんを抱きしめました。
医者も薬局も混んでいたので、車に戻ってくるまで3時間以上もかかってしまいました。きいちゃんはトートバッグごと座席から落ち、薄暗いところにどのくらいの時間そのままだったのでしょう……。私はきいちゃんを傷つけてしまったことが、ショックでした。きいちゃんのことが好きで、いなくては困るのに、家族なのに、こんな風に泣かせてしまうなんて。きいちゃんは犬や猫や、ましてや人間の子供でもなくて、〝ぬいぐるみ〟なんだから、車に置いたままにしても大丈夫だと、心のどこかで思っていたのです……
きいちゃんを助手席に座らせて、缶車とは反対の方角へ車を走らせました。なんだかこのまま、まっすぐに帰りたくなかったのです。あ、きいちゃんはシートベルトしてません。すみません。ベルト、長すぎちゃって、無理なんです。だけど、ぱっと見てぬいぐるみに見えるから大丈夫ですね。
車を駐車場に停めて、私はきいちゃんのぬいぐるみの体をトートバッグに入れ、頭が出るようにしました。ちょこんとかわいらしい赤い顔を出し、
「みかちゃ、ここどこ?」
と、きいちゃんはちょっと不安そうな声を出します。
「公園だよ」
「コーエン?」
「あのね、広くて、緑とかお花とかたくさんあって、お散歩できるの」
「みどり、おはな、おさんぽぉ…」
「そうそう。出発!」
車のドアを開け、きいちゃんの入ったトートバッグを肩に掛け、私は歩き出します。一周したら30分くらいはかかりそうな、まあまあ広い公園は、平日のせいか人はほとんどいないようです。
木陰を歩いたり、色とりどりに咲く花を見て、名前のわかるものはきいちゃんに教えたりしながら歩きます。きいちゃんのガラス玉のような目はキラキラと輝きっぱなしです。そりゃあそうでしょう。見るものすべてが初めてなんですから。
向こうから散歩をする老夫婦がやってきました。私ときいちゃんは歌を歌っていたのですが、私はあわてて口を閉じます。だけど、きいちゃんはかまわず歌い続けます。
「きいちゃん、ちょっとやめて、ストップ」と私は小声で言います。
「なんで?」
きいちゃんは、そう言ってますます大きな声で歌います。かわいらしい男児の歌声を響かせて、私達は老夫婦とすれ違います。クックと笑われてしまいました。きっと音楽をかけながら散歩していると思われたのでしょう。恥ずかしかったけど、きいちゃんが楽しそうなので、まあ、いいかぁ~。
私はきいちゃんをもっとどこかへ連れていってあげたいと思いました。
ふと、私は気づきました。耳鳴りがそれほど気にならなくなっているのです。もちろん治ったのではありません。きっと、きいちゃんと外で過ごして耳鳴りどころじゃなくなっていたせいでしょう。
「きいちゃん、また来ようね?」
私は自分が来たくて、きいちゃんを誘います。
「うん! きいちゃん、またくる。みかちゃと、あっちゃと」
「そうだね、今度お休みのとき、あっちゃんもね」
「うん、あっちゃも」
次の休日は、2人と1羽(?)で散歩することになりそうです。
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