[書評]BODYSHARING 身体の制約なき未来(玉城絵美/大和書房)について
この本は最初から最後までとても興味深い内容で1日で読み切ってしまった。こんなに集中して読んだのは本当に久々だ。
この本では近未来の人類はこんなテクノロジーを使ってこんな姿になってますよ、と言っているのだが、それは政府が掲げるムーンショット目標というものの1つでもあり、
実現する可能性はかなり高いと私は思っている。科学が進歩した未来をかいまみる事が出来る一冊となっているので、ぜひ一度手に取ってみてほしい。
ここから本題に入ろうと思う。私が集中してこの本を最後まで読めたのは、恐怖を感じながら読んだからだ。
著者の玉城絵美さんに対しては、倫理観がとても変わった方だなという印象を受けた。
それに伴ってこの本に対しては、「倫理的に議論を重ねた方が良いことを、あたかも素晴らしい事ばかりのように伝える本」という印象を受けたのが正直なところだ。
「通勤の様子を常に監視する」「脳をインターネットに繋げば唇を動かして喋る必要が無くなる」「自由意志など存在しない」「自分で考えて決断し責任を取る、という重荷から人類を解放したい」
など、
かなり過激な事を平気で言っているが、ここでは「体験」の事について思った事を深掘りしようと思う。
それは本書を通じて著者が人生において体験に重きを置いていると感じたからだ。
タイトルにもあるように、この本のテーマはBodySharingだ。
これは何かというと、別の場所にいる人(もしくはロボット)に乗り移って、遠くにいる人がしている体験を自分のものにしよう、という技術だ。
なぜこのような事が可能かというと、誰かが受けた様々な感覚をデータ化して別の身体でアウトプットするからだ。
また、感覚はデータ化されるのでいつでも取り出し可能なことから、過去の誰かの体験も自分のものにできるという。
つまり、人類は身体・空間・時間の制約から解放されるわけだ。著者はこれらの最先端の研究を行なっている方だ。
だがここで私には1つ疑問が生じる。他者の身体を使って得た体験は本当に体験と呼べるのだろうか、ということだ。
満足感の話ではない。著者によれば、技術が進歩した先では他者の身体にいても自分の身体と区別がつかなくなるらしいのでそこは問題ないと思う。
ただ、BodySharingを行なっているあいだ、基本的に自分の身体はベッドで寝ている状態だと思うので、それで果たして体験していると言えるのだろうかという疑問が拭えない。
インターネットで「体験」の意味を調べてみたら、
「身(=体)をもって経験すること」
とあったが、私には身や体の定義すら曖昧だし、そもそも定義や意味なんてものは時代とともに変わるから調べても意味がないとも思った。
例えば「爆笑」という言葉だ。その意味は広辞苑の第6版によれば、
「大勢が大声でどっと笑うこと」
とあるが、
10年ぶりに改訂された第7版では
「はじけるように大声で笑うこと」
となっている。
つまり、「1人で爆笑する」という使い方が間違いではなくなったというわけだ。恐らく誤用する人が多かったからだと思うが、このような例には枚挙に暇がない。
私はここで「自分はバカなので体験の意味が分かりません、ごめんなさい」と言いたいのではない。
そうではなくて、BodySharing で行った事を自らの体験として扱うのかどうかを自分自身で判断してほしいということだ。
他者の身体でスカイダイビングをしたこと、とびっきりの美女とデートをしたことを自分事として友達に自慢するのかどうかをよく考えてほしい。
自分のプライドがそれを許すのかどうかを。
もっとも、BodySharing で体験というものの価値がグッと下がった時代で何が自慢になるのかも分からないところだが。
いかがだったろうか。この本は思考停止のまま読むと、かなり魅力的な未来が待っているように感じてしまう。そういう書き方をしているからだ。
もちろん全てが駄目だったと言いたいわけではないが、ぜひ「本当にそうなのかな」という言葉を自分や著者に投げかけながら読み進めていってほしい。
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