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【父のつぶやき】妻が亡くなってから、その後の暮らし(3) 「助け合い・支え合い」から 「社会の変革」を!
私と妻は学生運動の中で出会い結ばれました。ともに社会の変革を目指すという点で仲間であり、励まし合って生きてきました。しかしそれは、生まれ育った「家族」や「地域」から離れた「大学」という場所でした。そこでは自分の自由意思で物事を判断できたから、運動や恋愛も出来たのです。実際、運動する場所も、「家族」や「地域」から離れた「街頭」や「キャンパス」であり、デモや署名活動が中心でした。
しかし結婚して
【父のつぶやき】妻が亡くなってから、その後の暮らし(2) 「喜び・生きがい」だった妻の「介護」
私は、介護施設に入っている妻の「介護」をすることを「喜び」「生きがい」と感じていました。そう言うと多くの人は奇異に感じるようです。そもそも「介護」を「喜び」や「生きがい」と感じる人は少ないのが現実です。私も最初から妻の「介護」に「喜び」を感じていた訳ではありません。自宅で妻や妻の母を介護していた時は、介護という作業に追われるだけであり、「苦痛」と思っても「喜び」や「生きがい」と感じたことはありま
もっとみる【父のつぶやき】妻が亡くなってから、その後の暮らし(1) 亡き妻と共に生きる・・・「手元供養」
妻が亡くなり、葬儀や様々な手続きに追われていた頃まで、私は元気でした。それらが一段落した後、疲れが出て私は体調不良に陥りました。妻が亡くなって私の日常生活が変わってしまったことも大きいと思います。それまで私は朝起きると同時に家を出て、喫茶店のモーニングサービスで食事を済ませ、それから妻がいる特別養護老人ホームに行き、妻の介護をするのが日課でした。それが出来なくなったのです。
朝、妻の顔を見れ
【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その5)
「介護」の心構えと「家族関係」を考える ここ数日、妻・瑞穂は眼をあけている時間が増えてきました。手足の浮腫みは無くなり、痰の絡みも減り、呼吸も安定し、顔色も良くなりました。その前は今にも命の灯が消え入るような雰囲気であったので、元気になったのは確かです。しかし頬はこけて、手足は骨と皮だけのように痩せこけています。栄養も水分も摂取できていないので当然ですが、本人は一言も発しないで、どんな気分なのかは
もっとみる【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その4)
「療養型病床」の病院から「特別養護老人ホーム」へ 四回目の出血の時、私は妻・瑞穂の「死」を覚悟しました。しかし妻は奇跡的に一命をとりとめ、意識を回復することが出来ました。脊髄から髄液を腹部で吸収させる措置が成功したのです.しかし、麻痺は進行しており、認知症という診断も追加されました。そして治療が終わったという理由で退院を迫れます。自宅に連れて帰るのは不可能であり、三回目の出血を起こしたリハビリ病院
もっとみる【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その3)
妻・瑞穂の近況と「老衰死・自然死・平穏死」 妻・瑞穂は経鼻管で注入された栄養や白湯も吸収できなくなり、体内の水分も減少していき、「枯れた」状態になりつつあります。やせ細ってきていますが、手足の浮腫みも取れてきて、痰の絡みも減っています。それによって落ち着いてきており、時折、目をあけキョロキョロするそぶりも見せます。意識があるのかわかりませんが、苦痛は感じていないようです。
何も食べなければ「餓
【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その2)
妻・瑞穂との出会いから結婚まで 妻・瑞穂は、父・近藤武樹と母・百合子の長女(一人娘)として、1944年7月16日に愛媛県新居浜で生まれました。生まれて間もないころに父・武樹が亡くなり、母・百合子は実家である愛媛県今治に帰ります。そして百合子は瑞穂を育てるために洋裁を習い、必死で働くことになります。その間、瑞穂は百合子と暮らしながら、母方の祖父母に面倒をみてもらいました。近くに住む百合子の兄夫婦に助
もっとみる【父のつぶやき】妻・瑞穂との暮らしを振り返って(その1)
2020年4月9日、妻・瑞穂は五回目のくも膜下出血を起こし、左半身に加え右半身にも麻痺が広がり、しゃべることも出来なくなりました。医師より回復は困難と言われ、一カ月の入院後、退院して入所していた特別養護老人ホーム・晃の園で「看取り介護」されることになりました。第一回の出血から43年、前回の出血から10年経過しています。
妻・瑞穂は私と出会った56年前から教師になることを目指しており、教師とな
【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々③
中富レポーターは、真剣に聞いておられた。そして、次にかまわなければ話してくださいと、質問されたのが、クモ膜下出血で倒れた時の状況だった。
わたし達は、なんだか初対面どうしのような気がしなくなっていたので、倒れた時のこともお話した。わたしが倒れたのは、昭和五十二年、五月十四日。三十二歳の時だった。職場の懇親会のバレーボール大会で、急に頭が痛くなり、手足の力が抜けていった。「あっ、頭の血管が切
【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々②
中富レポーターの取材風景を、メモ風に書きます 朝7時10分、 中富レポーター到着。 制作部の池田さんと、カメラマン、音声の関さんもご一緒。お茶を飲んでいただく間もなく、 慌ただしく出発。 細身に似合わぬファイトの持ち主だと、感心する。 自分の仕事に誇りを持っておられる方だと、初対面の瞬間から感じる。 でも、押しつけがましさがない。 しなやかな感じなので、 好感が持てる。
途中、街中の県民テレビ局
【母の遺作】詩・味噌汁を作りながら
味噌汁を作りながら ふっと 思う
大学なんかに やるんじゃなかったと
娘の大学生活に不満があるじゃなし
何 贅沢なことを いってんのよ
たしなめる もう 一人の私がいる。
私の母も、 同じ思いをあじわってたかも?
ふっと そう患う私もいる。
だが、 この会話の無さは どうだ
春休みに帰宅した娘は
まるで 遊ぶロポットだ。
内面を隠しとおして、 毎日走り回っている
それ
【母の遺作】忘れえぬこと 忘れえぬ人々①
中富レポーターのこと わたしは、 一九九二年十一月現在、 四十八歳の障害者で、 出版物の少ない児蘆文学者で、 奥藁科大間ファンクラブ会長です。
障害者になったのは、 十六年前。 クモ膜下出血で倒れたのが、 原因です。 その時の後遺症で、 左足が不自由で走ることはできません。 立っているだけで、けっ こう疲れるんです。 歩くためには、 全神経を集中させ て、 杖にすがらなければなりません。
頭痛
【母の遺作】みどりの子ゾウがやってきた
ユキちゃんはかぜをひいて、ようちえんをやすみました。
でも、おとなしくねていたので、おひるごろには、だいぶん、ねつもさがりました。
ユキちゃんが、おひるに、だいすきなホットケーキをたべていると、
「ピッポーン」
だれかきました。
おかあさんがでてみると、なかよしのともこちゃんです。
「はい、これ。せんせいから」
ともこちゃんは、あかいサンタのくつしたをわたしてくれました。
くつした