ドラマ『琅琊榜』で学びたかった中国語~第四十集②
サブタイトル「烏金丸」の続きで、蒙大統領が夏冬に夏江のことを「你就不要再挂在心上了(気に病むことはない)」と言ったところからである。
不会挂在心上的 心早就没有了 又能挂在哪儿呢
蒙大統領の言葉に対し、夏冬が答えた内容から見て行こう。
▼不会挂在心上的(bù huì guà zài xīnshang de)
否定詞「不」+可能性を表す助動詞「会」で「~のはずがない」、「挂在心上」は前回の蒙大統領のセリフと同じで、「挂在心上」で「心にかける」「気にする」などの意味、文末の「的」は話し手が肯定する気分で「~だよ、~ですよ」のニュアンスを表す。この部分全体で「気にかけるはずがないですよ」となる。
▼心早就没有了(xīn zǎojiù méiyǒu le)
「心」はそのまま「こころ」、「早就」は「とっくに」という副詞、「没有」が存在の否定である「ない」、「了」は状態の変化を表す文末助詞と思われる。この部分を直訳すると「心はとっくに無くなってしまった」。
▼又能挂在哪儿呢(yòu néng guà zài nǎr ne)
「又」はこの部分の反語の強調で「それなのに」という意味である。「能」は能力や条件的に「~できる」という助動詞、「挂」は「(心に)かける」「(気に)する」という動詞、「在」は直前の動詞「挂」の範囲を導いており、「哪儿」が疑問詞「どこ」、「呢」は反語になる疑問文の文末に使う助詞である。前文と合わせて「(心はとっくに無くなってしまった)のに、どこにかけられるのか」となる。
全体で直訳調にすると「気にかけるはずがないですよ。(私の)心はとっくに無くなってしまったのに、(もう無い心の)どこにかけられるのか。」字幕では反語のニュアンスを出さず、「心早就没有了」を「心はすっかり死んでしまった」で表現している。
「又能挂在哪儿呢」の部分は日本語なら「かける心がないのに」となりそうだが、中国語では「どこに(心を)かけるのか」となるのが興味深い。
このセリフ中に夏冬の頬に一筋の涙が流れた。夫を失ったことも辛かったのに、それが信じていた師匠のせいであり、それらを知った彼女の心が傷つきすぎて「没有了」になったのも当然である。
でも蒙大統領に依頼した梅長蘇と靖王への伝言は「無念を晴らしてほしい」、「流刑に処されても耐えてみせるので私は心配いらない」なので、強い人物だ。
帰り際に夏冬から梅長蘇が飲まされた毒薬・烏金丸について聞かれ、ここでやっと蒙大統領は梅長蘇が危険な状態だと知った。
一方皇帝に赦された靖王は、母の静妃のところへ行き、夏江の配下だった小新から仕かけられた離間の計の顛末を聞く。そして梅長蘇に対してした仕打ちを激しく後悔するのだった。自分が疑ったせいで梅長蘇は夏江に捕らわれてしまったのだ。ちなみにこれからもっと後悔するし、さらに後悔する日が来るぞ。
那个乌金丸可以不用管了
事態を知った蒙大統領と報告を受けた靖王は、梅長蘇の解毒のために収監中の夏江のもとへ急ぐ。一方梅長蘇を日頃から看ている晏医師は、梅長蘇の血を採取して調べた結果を笑みを浮かべながら言った。
▼那个乌金丸可以不用管了
(nàge wūjīnwán kěyǐ bùyòng guǎn le)
「那个」は「あの」、「可以」は「~してもよい」という許可を表す助動詞、「不用」は「~する必要がない」「~するに及ばない」、「管」は「かまう」、「了」は状態の変化を表す文末助詞である。
全体で「あの烏金丸のことは、かまう必要がなくてよくなった」となる。直後に黎剛が「不管了(字幕:なぜです?)」と尋ねるが、晏医師の言葉の要点を踏まえて短く聞き返している。
細かく見て行くと否定の「不」+「管」+状態の変化「了」で、「かまわない状態になった」→「放っておく状態になった」となる。日本語にするとくどいが、たった三文字でこのニュアンスを含められる中国語は面白い。
さて、梅長蘇が烏金丸で死なずに済んだ理由だが、「火寒の毒」でできた耐性が烏金丸に勝ったという。梅長蘇はその「火寒の毒」に侵されているわけだが、7日で死ぬ毒より強い毒性に耐性があるという。つまり・・・?
既に梅長蘇の命があまり無いことは第一集から示唆されている。そこに烏金丸を飲まされた。命は助かっても身体は損傷してしまったので、それなりに状況は深刻だ。
第四十集ももう1回やります。