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[映画レビュー] 落下の解剖学:ドクターの立場から

2023年フランスの映画 落下の解剖学 Anatomie d'une chute

気になっていたのはやはり「解剖学」というタイトル。久しぶりのまとまったお休みで、見たいものリストメモから選択。アマプラって本当に便利ですよね。


結論

結論から言ってしまうと解剖学=医療関連ドラマではありません!

メイン筋は法廷ドラマでした。そういう意味では期待していたのとは全然違ったのですが、主演のSandra Hüllerは、ヨーロッパ映画賞女優賞とセザール賞主演女優賞(英語版)を獲得、さらにゴールデングローブ賞ドラマ映画主演女優賞とアカデミー賞主演女優賞にもノミネート、というだけあり、全く最初から最後まで目を離せない素晴らしい演技力。驚き、怒り、悲しみ、絶望というわかりやすい感情変化だけでなく、少しだけ震える口元、八まゆの目元、ややポーカーフェースの掴めないアラフォー女性、いや、全然これが演技とは思えない、この人を堪能できただけでも、見て良かったと思える映画です。

警察側の細かい捜査は圧巻で、音楽の鳴っている部屋でどのくらいの音量で会話をすれば息子の耳に声が届くかの検証*や、納屋の壁についている血痕の垂れている方向から、どのように体から垂れたのかの計算、小さな取り繕いや勘違いの”嘘”を暴き、細かく詰めていくところなどはさすがプロ。精神的に追い詰められますね。

*見終わってからもう一度最初に戻り、息子の様子を確認しましたが、息子はかなり初期の時点で犬の散歩に出掛けており、彼は夫婦の会話は聞いていない様です。なぜ息子、ここで嘘を?

だいたいどの本や映画でもそうだけれども、わざと・わざとでないに関わらず、はじまりの「小さな嘘」というのが、いろんな状況を悪化させていき、ドカ〜ンと後で大きく悪影響してくる。前腕についていたあざを、テーブルの角にぶつけたと言い繕うような悪気のない言い訳でも、法廷の場では見ている我々も、ん?この人、なんか怪しいよねと、それまで心情的に彼女に同情していたバランスが崩れ、この人がヤッたんじゃないかと思い始める。そういう目で眺めると、彼女が夫に対しても、息子に対しても、弁護士の友人に対しても、なんとか他人の感情操作をして、(必死で)人生そのもののいいところどりをしたいタイプなのではないかと思えてきます。

私はそんな悪い人じゃない
ベッドの息子に語りかけるサンドラ

I'm not a monster 私はそんなことできるような悪い人じゃない、と辛そうに息子に語る母、でも他人の感情をこうやって操作しようとするややゾワっとするいやらしさはなきにしもあらず。

そういう意味で、私は、これっぽっちも嘘や取り繕いをしようと思わない、他人を操作しようとしない、馬鹿正直な人間の方が好き**なので、まあ、映画にはならないけど、そういう実生活のドラマのない日々をありがたき幸せと思わずにはいられません。


さて、解剖学というタイトルに惹かれてみたわけですが、法廷シーン・検事(検察官)シーンが圧巻だった(というか、知らないだけかもしれないけれど)のに比較して、医療側のシナリオが甘かったというところを以下に挙げてみたいと思います。つまり医療関係者の目から見た映画評ですが

司法解剖

3階から落ちて死亡した夫の死因を特定するため、司法解剖されています。司法解剖とは、死因がはっきりしない死亡の場合、遺体を調べる解剖です。これは、事件性が疑われる疑われないに関わらず、たとえば病院で患者さんが亡くなった場合でも、場合によっては司法解剖がされることもあるわけです。

映画の中では頭部の打撲跡が誰かに殴られたものか、それとも落下した時にできたものか判明できずに、他殺か自殺かわからないという話になっていますが、あれほど納屋の壁についている血痕の垂れている方向まで細かく調べているのに、打撲あとを頭から落ちてぶつかったと考えられる納屋の形状と合わせて見るくらいのことはできたのではないか。そして、後で向精神薬の有無だけでなく、薬の内服の有無が問題に上がって来ますが、司法解剖の際には生化学検査、ウイルスや細菌検査、薬物検査などの血液検査も可能であり、もう少し詳細な死因特定ができたのでは? 特に落下事故の場合、多くは向精神薬を飲んでの自殺の線が多いということもあり薬物検査は必須だったのでは?

息子の弱視

交通事故で、視神経が障害されて弱視になっている設定で両目が見えていない様子。事故の場合は左右対称に両方ということは稀***で、片方の側頭部の骨折で起こる場合が多いはず?となると、両目弱視という設定には無理がある?

*** 職場に出向き、朝カンファレンス前の準備段階で、ハンドオーバー(申し送り)にとき、救急外科医の同僚が、1例入院あり、えっと両側大腿骨頸部骨折、と言って私を笑かしてくれたことがあります(両側というのはまず聞いたことがない!)

アスピリン

11歳の弱視の息子が飼い犬にアスピリンを飲ませて実験、死亡した夫のアスピリン大量服薬が有ったこと(自殺企図?)を示唆して、最終的に裁判の結果を妻無実の方向へと変えたようなシナリオになっておりますが、アスピリンを数錠飲ませただけで、あんなに意識混濁させることはできないと思われます、どうしてここで向精神薬でなく、あまり害がなさそうなアスピリンとしたのか?

夫の手の骨折

夫が精神的に参っており、過去に家の壁を殴って手を骨折したシーン。整形外科として非常に残念だったのが、レントゲン写真が、基節骨の骨折の写真だったこと。

映画内からスクショしたもの、夫の手のレントゲン写真を証拠として出してくるところ
この骨折は指が「捻れる」様なメカニズムがないとできないのです

いやあ、これはぜひ、ボクサー骨折と呼ばれている、第5中手骨骨折で出してほしかったですねえ . . .

というのも、「イライラして壁を殴った」というボクサー骨折は本当によく見るからです(特に男性)。怒りで拳を握った状態で、手が物にぶつかるところを想像してみてください。ぶつかるのはここで、上記のような場所の指ではありません。

ぶつかるのはここ、折れるのはここ

もし、妻が「夫が壁を殴って骨折したのです」と証言したのであれば、君、また嘘をついているね、君がもしかして彼の薬ゆびを思い切りねじって折ったのではないですかと詰め寄るシナリオであっても良かったのでは?

余談ですが、整形外科医の間ではこのいわゆるボクサー骨折は5番目のナックルに当てており、へなちょこボクサーまたは素人ボクサー骨折と呼ばれております。本物のボクサーはちゃんと2番目にヒットさせるらしいですから。

本物のボクサーはちゃんと2番目にヒットさせるらしい(固くてインパクトが強い)



ということで、おすすめ度は☆☆☆

**本当は最近えらく感動した、原田マハの「板状に咲く」棟方志功のレビューを書こうと思ってたのに、なんだか感動して好きすぎると逆に面白いレビューが書きづらい、書けていないというジレンマですね。棟方志功はまさに、馬鹿正直ものの代表選手みたいなもう、大好き人間です。ということで、もしおすすめはと聞かれれば、原田マハの「板状に咲く」を読んでくれ〜とうところで終わりにしたいと思います(いつか書く)。


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山林
❤️