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『夜と霧』を読んで

「0で割ってはいけません」

高校1年生の初夏、塾の数学の先生が私たちに告げた。
「0で割るとこの世が終わる」と。

「この世にアイ(i)は存在しません」と並ぶいかにも高校数学的脅し文句である。


『死んではいけない』と言う命題は
『0で割ってはいけない』と同じようなものだと思っている。

一度足を踏み入れれば最後、引き返せない泥沼だから、とりあえず便宜的にそうしよう、と。


119104とはの心理学者のヴィクトル・フランクルのユダヤ人強制収容所での囚人番号。『夜の霧』は心理学者が強制収容所での体験を纏めたロングセラー本。

この本を読んでわたしが考えたこと。それは、生きることが我々に何を求めるか。

生きる目的をことあるごとに意識し、精神的に耐え、抵抗できるようにしなければならない。自分を待つ仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。

ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧』

人間とは、人間とは何かを常に決定する存在である。
人間、脆い。けれどなんて力強い…。
物事をどう捉えるかで生き方が180度変わってしまう。

93にわたる短い文章からなる底抜けに明るい哲学書、アランの『幸福論』でも好きな一節がある。

愛してくれる人のために成しうる最善のことは、自らが幸福になることである

アラン『幸福論』

めっちゃ痛いところついてくるやん…


あるいは、人は生きることそのものに執着することもある。『カラマーゾフの兄弟』の長兄ドミートリィのように。人生の意味より、人生そのものを愛すること。何が何でも這いつくばって生きてやるという図太さ。

ちいかわでいうとモモンガ的な。

モモンガ


一方、生物としてのヒトは遺伝子の乗り物でもある。
わたしはその事実に救われることがある。

我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。(中略)それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。

村上春樹『猫を棄てる』

自分より大きな集合体を意識して、「まあ、ヒトという種が生き長らえているからいいか」と肩の力を抜いて、観念するのもいい。

で、ここでチラついてしまうのが
カズオイシグロの『わたしを離さないで』や漫画『約束のネバーランド』

アウシュビッツ収容所とこれらの作品中の施設は、どちらも当人たちの自由意志で入ってはいない。クローンの生きる権利は?はたまた食用として養殖される動物の生存権は…
そもそも、全体ってどこからどこまで??多数のための犠牲というのが功利主義の功罪というかなんというか…

考えるべきことが渋滞してカオスになってきたのでそろそろお手上げです。


ところで、人間いつ何が起こるか分からないので、
家族を送り出す時、あるいは家族に送り出される時、わたしは喧嘩をなるはや収束させるようにしている。

わたしは家族と喧嘩したまま家を出た時にはいつも、星野源の『布団』の一節を思い出して背筋が凍るのだ。

いってらっしゃいが 今日も言えなかったな

帰ってこなかったら どうしよう

おはようが 今日も言えなかったな

おかえりなさいは いつもの二倍よ

万が一和解が成立しなかったときは、おかえりなさいをいつもの2倍にすることをお勧めします!

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