祖母と周りの話

目次

・自身の記憶について
・祖母
・父と祖母と高祖母
・弟
・母
・祖母との関係
・最後に

自身の記憶について

私は楽しいことも悲しいことも、昔の出来事は然程覚えていない。こんな事をしてどんな事が楽しかったと言う記憶が人よりも薄い。皆で集まった時は話せるエピソードは思い出せと言われても出来なかった。

覚えている殆どが感情に対する印象と言えるかも知れない。

でも祖母に嫌われてい他のは覚えている。
実際にそんな事は無かったかも知れないが、私はそのように記憶している。

そしてそれに関係する周りの記憶も残っている。
一連は私を作った島の一つ、と言っていいと思う。

祖母

祖父母にとって、孫は無条件に可愛い物だと思っていた。けれど決してそんな事はない。今の世界を見れば一発で分かるが、愛されて当たり前、と言う事はない。

祖母からは"なぜこれが出来ないのか""女の子なのにだらしない"などそんな事を言われた思い出ばかりが鮮明にある。幼い時の記憶は頼りなく、そんなものだ。

小学2、3年でそれは最高潮だった。と言っても決して叩かれたりする訳ではない。言葉による圧だった。

掃除も苦手だった私はよく物を無くした。自分が悪いのは分かっている。母にも"だらしない""きちんと元の場所に戻すように""なぜそんなになくすのか"と言われた。 

自分でも不思議に思う程ものが無くなった。なぜか分からなかった。自分ではとても一生懸命にしているつもりだったのに、結果は全く伴わなかった。悔しくて泣いた記憶があるが、それでも私なりに頑張っているつもりだった。

父と祖母と高祖母

父には姉が2人いて、3番目の父は長男だった。

祖母には弟がいたが、祖母の母親の不注意で喘息の治療が手遅れとなり2歳ほどの時に亡くなってしまったらしい。これは高校生になってから聞いた話だ。

その4歳の時の記憶は殆どないだろうが、祖母は自分の祖母(高祖母)にそう言い聞かせられて育った為、心底愛する母を心底恨んでいる。

もちろん私は高祖母に会った事はないが、聞く限りではとても気の強い女性だった。田舎の人間であり何世代か前の理解により、これはこうであるべきだ、と言う確固としたモノを持って生きた人だろうと想像した。

祖母の実の母は家にいられなくなり、代わりに別の母親が家に来た。
祖母は本当に大変な思いをして育っている。
幼い時の環境と言うのは本当に大きく子供の人格に作用すると思う。代わりの母は祖母の父親を異常に愛して、子供である祖母にすら妬みの感情を言葉でぶつけたらしい。

祖母は親戚や先生に助けられ愛され育ったが、母の愛情を受けられなかった。皆がそうとは限らないが祖母の場合はそこがとても大きな穴となって今も尚残っている。

祖母の弟を2歳で亡くしたため、高祖母は孫である父をとても大切に育てた。そのため父は誠実に真っ直ぐ健やかに育った。良い男だ。

祖母は大切にしている長男を取られたのが悔しかったのだと思う。それは父が母を愛している証拠とも言えた。
可愛く言えばヤキモチだろう。祖母は母に意地の悪い事をした。母は負けず嫌いで、嫌な事をし返すような事はしないにしても、強くあたって立ち向かった。でもよく泣いていた。父に見つからないように別の部屋に行くのだが意味がないくらいわんわんと泣いた。


祖母には、よく弟と比べられた。弟は外面が良いと言うか猫をかぶるのが上手かった。さっきまで怒られるようなことをしていても、ころっと態度を変えた。信じ難いが、それを無意識にしてしまう。意図的ではなく感覚だった。

無論私はそんな弟がイヤであり、同時に大好きだった。
弟は確実に愛されるのが上手いと思う。生まれたての赤ちゃんのようにその事に関して器用だった。
跳ね除けてもめげずに戻ってきたし、保育園に行っていた時は私が隣にいないとお昼ご飯を食べなかった。いつも私の膝に座っていた。

私はそれが下手だ。人に愛されるのは本当に才能でもあると思う。私は感覚でそうする事はできない。
考えて一から組み立てなければいけなかった。皆は感覚でそれができるのかもしれない。だから私にそれを改善する方法を教える事が出来なかったのだと思う。

頑張って弟のようにしてみようと良い子ちゃんを目指しても全くそれに近づく事はできなかった。

なので私は先のことを頭の中で模索し詮索するようになつて、それによって不安になり、また綿密に考えて、より巧妙になった。

私は大きくなってから一度、保育士の資格を持っていた母にこんな事を聞いた事がある。
「保育士をしていたから、子育てに役立つことも多かったでしょう⁇」

すると母は「でも全然違った。○○は何を考えているか分からなくて、どうして良いか悩む事が多かった」と言った。正直、衝撃だった。小さな頃から弟は分かりやすく、私は分かりにくかった。

(今では率直にそんな事も言ったり聞いたりできる関係だと言う事が伝わって欲しい。)

母はそんな中でも一生懸命に育ててくれたので、私や弟を叱るのも大体母だった。でも弟は父に叱られる事も多々あり、その迫力は母の5倍だった。
父は娘に甘くやさしかった。そのせいか、私はいわゆるパパっ子で、母に抱かれると泣いた時期もあったという。

申し訳なかったと思う。
でもパパっ子だっただけで、叱る母を嫌ったり憎んだりしていた、なんて事は決してない。怒られた直後は私もカッとなっていて、ママなんて‼︎と言って母を傷つけた事もあったが、子供は親を無条件に愛するモノだと思う。
いくら叱られても叩かれても、自分を守ってくれる存在は両親なのだと信じている。

私は母が大好きだった。

母は外から帰ると手を洗う時に私を呼んで、自分の手で私の手を覆い石鹸で優しく洗ってくれるのだった。私はそれがとっても好きだった。他にも朝起きる時にニワトリの歌を歌って起こしてくれたし、眠る時も優しい声で包んでくれた。どれもあたたかく大切な記憶だ。

今でも10年以上付き合いのある友人達にすら「何を考えているか分からない」と言われる事がある。私の中の私は至って傷つきやすくシンプルなのに、周りからすれば本当にそうなのだろう。
母が苦労したのも無理はなかった。

そんな私を諦めずに助けてくれたのもやっぱり母だった。

泣いている母をたまに見た。
ほとんどの原因は祖母だったと思うが、母は決して私にその愚痴を聞かせたりはしなかった。
悩んでいて「おばあちゃんは私のことが嫌いなのかな」と聞いても「決してそんな事はない」と言って私を励ましてくれた。

私が祖母に好かれたいと思い続けられたのは確かに母のお陰だ。

祖母に好かれるように変化したきっかけは、母が頼んでくれた"玄関の掃き掃除"と、本当に小さな事だった。

小学校の3年生くらい、学校の掃除時間にモップではなくほうきを使い始める頃だ。母は私と弟に仕事を与えるのだった。家の廊下を掃除する人と玄関を掃く人。
家の中はモップで済むので楽だった。弟はそっちを選ぶので私は玄関を履いた。
それが始まった頃はなんとも上手くできなかった。小学校の床とは違い、土足で上がる玄関は砂がタイル目に落ち全く上手くはけなかった。

母はリヴァイ兵長のように厳しく「本当にはいたの⁇」という感じで掃除後の私に聞いてくる。私はとても負けず嫌いだったので、その言葉はかなり刺さった。母も不器用だ。
何度かそれを繰り返していくうちに「はくのが上手になったね‼︎」と褒められた。飴と鞭作戦だったのかも。母ひ不器用というか真っ直ぐだった。
私はとても嬉しくなってもっと上手にほうきを使える様にと努力した。

母は火を付けることも、火を程よく調節することもうまかった。母のこれが弟に受け継がれた感覚だった。

学校

1年生の三者面談の時母は先生にこの子は「独創的過ぎてどうなるか不安だ」と言われたらしい。
他の子に比べて可愛いものではなく虫に興味を示したり、個性的な絵を描くと当時の先生達は不安になったのだと思う。

でも学校の先生も変化にめざとがった。
私が4年生の頃、誰かは忘れたが私が上手にほうきを使う姿を見て褒めてくれた。それだけでなく、低学年の子達にもよく教えてあげて欲しいと言ってくれた。
母に与えられた仕事が実った瞬間だった。

私は徐々に安定した。訳を話さずに泣いたりしなくなったし、怖い夢にうなされることも少なくなった。不安は度々襲ってくるが、だいぶ良い。
私は今22になろうとしているけれど、この間には私を形成する本当にいろいろな出来事(事件)があったと思う。

今ならADHDなどがより浸透し、より理解がしやすかったのかもしれない。ADHDなどの診断は受けていないけれど、自分はその類だと思う事が多々ある。真実はわからないけれど。

祖母との関係

時間は3・4年かかったが、その後祖母との関係はとても良いものとなった。
私は母に助けられ前よりも片付けが上手くなり、感情の表現も上達した。私はよく優しいと言われた。

そんな中で祖母の認知症が始まった。初めて兆候が現れたのは私が中1の時。やっと祖母と仲良くなれたと思って喜んでいた頃だった。

認知症は最近の記憶から無くなっていくと聞く。

なので私が一番初めに気にかけたのは、
この数年で築いてきた祖母との関係が祖母に忘れられるのではないか、またあの頃のように冷たくされるのではないかと言う事だった。
祖母が私を忘れてしまうのは、いつかは避けられないとしても、出来るだけ祖母の記憶の中に愛する孫として居たかった。

父はしっかりものの祖母(母)が徐々に蝕まれる姿に苦しみ怒りを感じていた。分かっていても怒り注意してしまう、そう言っていた。
父は「○○みたいに優しく出来ない。何度も同じ事を言われても怪訝な顔をしないお前はすごい」と言った。

でも実際私は上記のように、忘れられたくない、その一心だった。

私がパートになり、学生時代のように祖母と家で過ごす時間が増えると、祖母はよく涙を流して私が嫁に行く事について話した。
旦那を見たいとか、孫を見たいとか、弟が婿で出て私が家に残ればいいとか、色々好き放題いったが、認知症の発症から10年ほど経った今も私は祖母に愛されている。

認知症は人を怒りやすい人にも、穏やかな人にもする。
祖母は遊びに出かける祖父に罵倒を浴びるが、私や母には穏やかになった。時々悪口も出るが、母の事は「ママ」と呼ぶ。

最後に

最近気づいた事がある、母の事だ。
母はとても負けず嫌いで私もその母に似ていた。
今は双方とも丸くなり負ける事に対してこだわりはあまりなくなった。けれど私には明確に母に及ばない所があると気づいた。

それは愛だった。母は真っ直ぐな愛を持っている。愛を示されなくても母は愛する事ができる。

全く懐かないハムスターが死んだ時も、何度も自分を噛んで怪我をさせた愛犬が亡くなった時も、母は驚くほど泣いた。

真っ直ぐな母は鈍感で不器用な人だが、誰よりも愛される人だと思う、

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