見出し画像

ライトノベル衰退論「どうしてラノベは衰退したのか」なろう小説とネット上でのバッシング

ライトノベルが衰退していった理由


ラノベが衰退してしまったかどうかについては論じません。
ライトノベルを書いている人はいるし、その中には面白いものもありますが、あくまで「衰退した」と仮定したうえで話を進めます。

では、どうして衰退してしまったのか。僕が思うのは単純に、「書く人がいなくなったから」です。いなくなったというのが穏当じゃないと感じるのなら、少なくなったと言ってもいいでしょう。つまり人材不足です。

主に、なろう系のネット小説を書くほうに、人材が流出していった結果、ライトノベルは衰退していったのでしょう。

ここまでは、当たり前の話です。見ていれば、「まあ、そうだろうな」と誰しも想像がつきます。

コミカライズとか、アニメ化とかで、なろう小説がヒットしていることからも、なろう小説の方では、良い人材が発掘されていることがわかります。

流行っていれば、皆の興味関心も引きますから、なおのこと、衰退しているラノベではなく、流行っているなろう系に作り手は流れていくことでしょう。

なぜ人材は流出したのか

では、どうしてライトノベルから、他の分野へと流出していってしまったのでしょうか。流行っているだけで、皆が皆、なろう系に移ってしまうとは考えにくいです。

なろう小説は書きやすいのです。同じような話の展開に、文体まで似通っています。誰かの真似をすれば、読む側も読みやすいとほめる。そういう土壌があります。

これなら、自分でもできるかもしれないと思わせるハードルの低さがあるわけです。要は、創作がやりやすいのです。

これは一般論でしょう。なろう小説を読んだことがあったり、それを基にしたマンガやアニメを見たことがあれば、想像がつきます。

どれも同じような感じだけれど、そこに多少の違いさえあれば、差別化ができていると、なろう小説を好む人は考えます。それに満足しているかどうかは別ですが、許容することはできるから、読み続けるのです。

ラノベの読者層は厳しく、なろうの読者層は甘い

ここからが自説になるのですが、では、なぜライトノベルではそれができなかったのか。

それは、なろう小説の読者層は物語の質に甘かったのに対して、ライトノベルの読者層は厳しかったからでしょう。タダで読めるものには甘く、お金を出すものの質には厳しくなる。これは当然のことです。

厳しいのは必ずしも悪いことではありませんが、状況があまり良い方向に働きませんでした。

特に、ネット上では、ライトノベルの質に対するバッシングは、割と流行っていたように思います。

「こんな変な文章がある」と著作権を無視して晒し上げる人がいたり、「俺でも書ける」という意見が、当たり前のように行き交っていたように思います。

こんな状況だと、作り手が委縮するのも無理はありません。ライトノベルは買うのにお金がかかるものですから、客として文句を言っていいというのが、あったのでしょう。

一方で、なろう小説は、しょせんタダで読めるものなんだからという、タダだから質が低くても当たり前、むしろ少しでも質が高かったらほめるべき、みたいなのがあったのではないでしょうか。

少なくとも、タダで読めるものを晒し上げて、馬鹿にする文化はなかったように思えます。というか、今もないですね。素人が書く文章をわざわざ晒し上げる人がいたら、むしろそっちのほうがモラルを問われることでしょう。

なろう系は素人なんだから下手で当たり前、一方で、ライトノベルは新人賞を取ったプロが書くものなんだからひどかったら、馬鹿にしてもよい。そう考える人が多かったのではないでしょうか。

その結果、わざわざ馬鹿にされるライトノベルを書く人は減り、むしろ今、流行りのなろう小説を書こうという流れになっていったのではないかと思います。

わざわざ流行っていない馬鹿にされているものを書こうと思う人は、なかなかいないと思います。才能があればあるほど、そうなんじゃないでしょうか。

自由であることは悪いことか

ある意味では、ライトノベルは馬鹿にされるくらいの自由な作風を持っていたとも言えるのではないでしょうか。自由で痛々しくても、自由であること自体は、明らかに良いことです。

スカスカな文章でも、むしろ、ごちゃごちゃとした文学青年が書きそうな装飾過多な文章よりは、読みやすいのではないでしょうか。

あまりに馬鹿にされすぎた結果、暗黙のルールができてしまい、自由がなくなっていった。あれもダメこれもダメと言われたら、創作者はやる気を失います。

一方で、なろう小説には、むしろ成功するためのテンプレ、ルールがありました。とりあえず主人公を交通事故か何かで死なせて異世界転生させておけばいい。とりあえず悪役令嬢にしておけばいい。枚挙に暇がありません。

その通りにやれば成功するのですから、才能がなくったってやってみたくなる。要は、確率論のように見えますから、運が良ければ自分も読んでもらえるかもしれない。

目指す人の人口が増えれば、そのうちに才能がある人だって参入してくれることでしょう。

スカスカな文章は叩くべきではない

最近ぼくは、滝本竜彦のデビュー作「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」を読み、その文章の軽さに驚きました。自分の力量を過信せず、必要最低限の文章量で作り上げている感じがするのです。

ゆくゆくは、もっと長い文章を書くようになり、「NHKにようこそ!」を書いたり、小説風のエッセイ「超人計画」を書いたりするのですが、デビュー作は肩ひじを張っていません。

これは村上春樹の初期作品にも言えることではないでしょうか。うまい文章を書く人は初期において、あまり過剰に文章を装飾しないことがあります。村上春樹はこう述べています。

そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。

村上春樹「職業としての小説家」p.107,108(文庫版)

スカスカな文章だとライトノベルを批判する人たちは、こういう視点に欠けていたといえるでしょう。むしろ素人がプロを目指すにおいて、スカスカなほうが良かったのかもしれません。

スカスカなほうからアプローチしていった結果、面白く読める文章もあった。その中から、才能があり上手い文章を書けるようになった人もいる。だからこそ、ライトノベルは流行っていたのです。

小説は自由であるべき

小説は自由であるべきで、その自由をがんじがらめにするような思想が持ち込まれることは、良いことではないでしょう。

批判とバッシングの違いとも言えますが、リスペクトを持って作品を取り扱うことは、どのような分野においても共通して言えることです。また、そのバッシングが読者でない人に行われるのだとしたら、とんでもないことだと思います。

ネット上での叩きはほどほどに。でないと、一つの分野を潰すことにもなりかねないと、ぼくは考えます。これがぼくの考えるライトノベル衰退論です。創作者は黙って別の分野へと渡って行ってしまうのです。

参考文献

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?