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多くの争いは「優劣判断の不要なこと」で「自分の方が優れている」というマウントを仕掛けることから始まる【反応しない為の俯瞰的視点】
「わざわざ、そんなこと言わなくてもいいのに」と思うことがある。
「俺の方がすごい」「俺が一番わかってる」と声高に主張し、自分の優位性を伝えたがる人がいる。
そういった誇示に明け暮れる人に、しらける人もいれば、侮蔑のまなざしを向ける人もいる。まあ多くの人は事を荒立てないよう、大人の対応をとるだろう。
優位性のアピールの根っこにあるのは、劣等感だ。
弱い人間ほど強さに憧れる。
「自分が劣っているかも?」と不安にさいなまれている人ほど、自らの口で「私は優れているんですよ」と言いたがる。
僕も散々この手のマウントをされたし、自分がマウントを仕掛けた記憶も多々ある。
こういうマウント合戦は
・劣等感が強いものがマウントを始める
・周囲にいる劣等感に苦しむものが、それを見て傷ついた心境になり恨みを持ったり、反撃する
などで激化していく。
やはり発端は、劣等感なのだ。
「空の空、いっさいは空である」「色即是空」「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」など偉大な宗教家や哲学者が口をそろえるとおり、実は全て最初から存在せず、人が勝手に作り上げた価値観や妄想に過ぎない。
なので我々はありもしない正しさや優劣を勝手に作りだし殺しあい、気づけば現世に次々と地獄を作り出す愚かな存在と言えるだろう。
あなたが「ある」と信じているものが、そもそも「なかった」と言われたら、どんな気持ちだろう?
「意味がわからない」と戸惑うかもしれない。
ただし多くの優劣は、人間社会の中でのみ作られた価値観に過ぎない。人間達は社会システムという箱の中に押し込まれた瞬間、優劣を競い合うようにできているだけだ。
こういった社会構造や人間の持つ性質を俯瞰的に捉えられれば、劣等感を発端としたマウント合戦がいかに取るに足らないかがわかる。
もしあなたがマウントを仕掛けたり、あるいはマウントを仕掛けたくなったとき、地球の外にカメラを視点を据えてほしい。
小さすぎて、芥子粒にすらなっていないことがわかる。
外から眺めるとそういうことなのだ。
ズームアップで人の感情を捉えるから、そこに巻き込まれる。
そういうときほど、認識すら難しいところにカメラを置いて見るのがおすすめだ。
宇宙から個人を見ようとする行為は、我々が全員、死に去って何百年、何千年が経過してから誰かの情報を探し出すのと似ている。
基本的に誰も覚えていないし、誰も調べようとはしない。歴史に残っている人の情報ですら、歪曲される。全て客観的に認識されることはない。
そう考えたら楽にならないだろうか。
喜びも苦しみも、あなたが作りだしているだけかもしれない。
我々にできることは、愚かな争いを仕掛けてくる人に反応しないことだ。
相手にリアクションを示すことは、寂しい人に「感情的な反応」という報酬を与えることに他ならない。
争いに巻き込まれないためには、自分の足で踏ん張り相手の挑発に乗らないことである。
「こっちのリングで殴り合いをしようよ」と挑発されても、あなたはそのリングに上がらない方がいい。
争いに高じる人は、自分に退屈した人である。人生に退屈した人である。大事なことから目を背け没頭する対象がないかゆえに、退屈しているのかもしれない。
そんな人の暇つぶしに、あなたの貴重な寿命を削ってまで付き合う必要はない。
あなたはただ、あなたの信じる人生を全うすればいい。
あなたにとって、それには大きな意義があるのだから。