「先生」と呼ばれて増長!?職業や立場に自分を乗っ取られる危険性
二十代の頃、ナインティナインの『オールナイトニッポン』が好きで、毎週聞いていた。
ナイナイの岡村さんが
「大物落語家のマネージャーについた若者は最初、とても感じの良い人だった。しかし半年ほど大物落語家のマネージャーを務めたことで人格が大きく変わってしまった。まるで自分が大物落語家のように偉そうな振る舞いをするようになって驚いた」
というようなことを語られていた。
そう言えば以前、こんな光景を見かけた。
免許の更新に行ったのだが、白髪の教官らしき男性がみんなを怒鳴り散らしていたのだ。
「お前ら、そこへ並ぶな。こっちへ来い。そうだ。俺の前へ並べ。そうそう、俺の前に一列に並ぶんだ。やればできるじゃないか。それでいい」
自分のことを、軍隊を束ねる軍曹とでも勘違いしているのか、とてもとても偉そうなおっさんだった。
このように職業や立場に人格を乗っ取られてしまう人が、一部、存在する。
恐らく彼らが増長してしまう理由のひとつに、「威張りたい」「人の上に立ちたい」「優位に立ちたい」という欲求がずっとあったが満たされなかった。
しかし、ポジションを得たことで「チャンス到来!」と気分が高揚し目を覆いたくなるような増長に陥るというのが挙げられるだろう。
二ヵ月ほど前の記事で、一時期、ライティングの講師の仕事をしていたと記した。
日本は「先生文化」の国で、何かを教わる際にどんな相手であろうと「先生」と呼ぶことが少なくない。
僕は先生と呼ばれるのがとても苦手で、講師を始めて最初の一年は「僕のことを先生と呼ばないでくださいね」「普通に〇〇さんという呼び方にしてもらえると嬉しいです」と言い続けた。
しかし慣習というのは、中々とれないもので、何割かの人は僕のことを先生呼びし続けるので、ついに根負けした。
「呼び方はその人の自由だな」と切り替えて、好きに呼んでもらうことにした。
もうひとつ思ったのは「何と呼ばれようが、自分が変わらなければいい」ということ。
恐らく当時の僕は「先生呼び」をされることで、自分がグラつき変化してしまう恐怖や不安を抱えていたのだろう。
このことに気づき体から力が抜けて、少し気楽になった。
僕が好きだった教職者というのは、いずれも職務に自分を乗っ取られていない人ばかり。
どちらかといえば、僕は、教師の中で浮いている変わり者と称される人との方が好相性だった。
とても人間臭く、それが魅力的で「俺は先生だから」という偉そうな感じが微塵もしなかった。
先日、先生と呼ばれる立場の友人たちとご飯へ行く機会があったが、彼らも同じだ。
「なんと呼ばれようと自分は自分」という自分軸を持っている。だから彼らには魅力がある。
会話の中で出たのだが、教職者の中には先生と呼ばれ続けた結果「自分は偉いんだ」と勘違いしてしまう人が一定数いるらしい。
「職業=自分」「教える立場=えらい人」みたいな勘違いを起こす人を見ると「なんだかなあ…」と思う。
昨今、問題になっているジムや画廊に出没する「アドバイスおじさん」なんかは、最も先生呼びに飢えている人種だと思う。
持ち上げられたくて、しかたないあの手の輩が優位に立てるポジションを得ると、たちまち変貌を遂げる。
前述した免許の更新の際に出くわした「おい、お前ら! 早く俺の前に並べ!」と、怒鳴り散らす厄介なおっさんのようになりがちだ。
昨日も他人軸と自分軸について書いたが、
ポジションに自分を乗っ取られてしまう人ほど、他者かの評価に飢える他人軸の人だと感じている。
今回の記事は自戒を込めて書いているが、油断すると人はすぐ堕落するものなので、増長しないよう、謙虚さを持ちメタ認知によるセルフチェックを怠らないようにしたいものだ。