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感謝の対義語は当たり前!?「できて当然」思考で、人を追い詰めてしまった話

今日は、勇気を出して、まだ誰にも話したことがないことを書こう。

懺悔に近い内容で、思い出す度に胸が痛む。

数年前、僕はWebライターの講師をしていた。

その受講者の女性は文章を書いたことがなく「Webライターになりたいです」と、僕のスクールに来てくれた。

技術を習得するまで時間を要するタイプだったが、毎回、すごく一生懸命、課題に取り組んでくれていた。

僕も講師になりたてで、余裕がなく「なんとしてでも結果を出してもらわねば」と、気合が入りすぎていた。

「正しいことを正しく伝えて実践してもらったら、おのずと結果が出る」と正しさに捉われたレッスンを提供しているうちに、どんどん彼女の顔色が曇っていった。

最初はやる気に燃えていたのに、覇気が失われていった。

課題の提出が遅れるようになり、「ライターになりたいのなら、締め切りを守るのは当たり前ですよ」と頻繁に注意をするようになる。

さらに彼女の元気は失われていき、最後には「私にはもう無理です。やめさせてください」と泣きそうになりながら告げてきた。

そこで初めて「ああ、ここまで追い詰めてしまっていたのか…」と気づき、後悔したが後の祭り。

振り返ると、彼女に合ったやり方を提示できていなかった。

結果を出すことに捉われすぎて、彼女の気持ちや取り組むプロセス自体に関心を払えてなかったのだ。

僕の中にある当たり前を一方的に押し付けすぎていた。

結果に繋がっていなかったものの、彼女は十分すぎるほど頑張っていた。

頑張り過ぎたから、疲弊してしまったのだ。

今なら雑談をしたり軽いジョークを飛ばしながら「今、心の状態はどうか?」「モチベーションはどうか?」など彼女自身に関心を向けるだろう。

あの頃の僕は「これぐらいできて当たり前」という思いがあり、これが実に傲慢だった。

「いかに結果を出してもらうか?」ばかりに意識がいっていた。

人の得手不得手は先天的に決まっており、どんな能力も遺伝子が約半分ほど関与しているという。

つまりできる、できないは人によって大きく異なる。

何かを習得するまでのかかる時間に、かなり個人差があるのだ。

文章を書き慣れていない人が、毎回、課題を提出するだけでかなり大変だったはずだが、そこに気づけず労いの言葉もかけてあげられなかった。

殺伐とした環境では、心理的な安全が保たれないため、能力を発揮しづらくなる。

彼女を委縮させていたのは、他ならぬ僕だった。

きっと楽しみではなく苦しみを提供していただろう。

「感謝の対義語は当たり前」という説がある。

当たり前のことに人は感謝できない。

やってくれて当たり前、してくれて当たり前と考えている人は相手に「ありがとう」を言わない。そしてねぎらうという発想がない。

当たり前のことができないことに、人は腹を立てる。立腹した人が決まって口にする言葉が「こんなことも、できないの?」だ。高い位置から見下ろしたときに出る一言。

「当たり前」「普通」「常識」「社会人として」などの言葉が脳内に浮かんできたときは、要注意だと自分に言い聞かせている。

それらの言葉は、いともたやすく人を傷つける。

そして一見、正論のように聞こえるので、言われた側は反論しづらい。

そして自信を失っていく。

「抗えぬ上下関係が築かれ、言われた側はさらに萎縮する」という悪循環に陥る。

世間が勝手に設定した「当たり前」「普通」に達するために、陰で涙ぐましい努力をしている人も存在する。

その取り組み方に目を向けず「当たり前のことができない、あなたに価値がない」というのは、血も涙もないではないか。

人は自分が当たり前にできていることほど、みんなも当たり前にできるという錯覚に陥る。

当たり前にできることは、個人によって変わるのだ。

不器用な人が前へ進もうとする際に、必要なのは高みからの詰問ではない。

目標をしっかり共有した上での寄り添いだ。

人は機械ではない。

心理的な負担が増えていくと、モチベーションが下がり心が悲鳴を上げる。

今でも誰かに何かを教え伝える立場になったときは、僕は今回記した彼女とのレッスンで陥った苦い失敗からの学びを、常々忘れないようにしている。

楽しさ、やりがい、成長の実感などの報酬がなければ何事も続かないし、辛い頑張りや努力という根性論は、今の時代、もう必要ないだろう。

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