友だちがおらず病んでいた高校時代、職員会議をさぼっていた先生の一言に救われた話
本音をいうと全体の7割くらいの教師と気が合わなかった。しかし3割ほどの先生とは相性がよく、僕はこういう方々に救っていただいた実感がある。
僕は誰かが決めたあやふやな正解や正しさをひたすら信奉し、その価値観を疑わずに生徒へ押しつける元受験秀才のような杓子定規の教師が大の苦手だった。
一方人間味あふれた、ある種の不完全さを持っている先生とは馬が合った。
僕が好きだった先生は、世間でいわれる変わり者であることが珍しくなく、教師の中でも少し浮いている人が多かったように思う。
神経症的な症状が出て、自分も世間も大嫌いだった高校時代。
地元を離れて私立に入学した僕は、ゼロから人間関係を築くことにつまずきクラスで孤立していた。
授業は毎日出るようにしていたが、課外授業は毎回「体調が悪いので、休みます」といろいろ理由をつけてサボっていた。
そのときの担任の先生が、ある日の二者面談の際にこんなことを笑いながら語った。
「俺も教師になりたての頃は、いろいろ悩んで職員会議をさぼってたんや。ほんでそれが教頭にバレてな。こっぴどく怒られたんや。アホやろ?」と、にこにこ。
僕が課外授業に出ないことに対して、とがめることは全然しない。
世の中への不信感が募り、過緊張になっていた僕を緩めるように緩めるように気さくに話す。
孤立し人から関心を向けられることに飢えていた僕は、この先生の「俺もお前と同じで、よくサボってたよ」という話を聴いて、その後、課外活動に参加するようになった。
話を聴いた結果「この先生のために何かしたい」と主体的に思えたのだろう。
子どもは大人のことをよく見ている。
自分にしか関心がなかったり、えこひいきばかりしている教師も少なからずいた。僕が最も重視していたのは「生徒への関心がある人かどうか?」だった。
生徒に関心を向けられない教師に、僕は全く心を開かない。直感と本能で「ああ、この人はエゴイストだ」「ああ、ナルシストか」と見抜いてよく失望していた。まだエゴイスト、ナルシストという言葉を知らない時代だったが、感覚で理解していた。聖職といわれる教師への期待値が高かったのだろう。
高校時代は辛いことの連続で、数日部屋から出られないこともあったが、関心を向けてくれる大人がいてくれたおかげで、性根まで腐ることはなかった。
どこかで「世の中捨てたもんじゃないな」と思えたのは、温かい声掛けをしてくれた大人がいたからだろう。
とてもありがたいことだ。
孤独だった僕に関心を示してくれた人たちには、今でも深く感謝している。