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自分はいじめられるべき人だと思っていた。

 いじめられるべき人なんていない。

 「いじめられる側が悪い」なんてことはない。

 悪いのはいじめる側だ。

 世の中に溢れているのは、いじめられている人に「あなたは悪くないんだよ」と勇気づける言葉。

 そんな言葉は全部、嘘だと思っていた。

 自分は、いじめられるべき人間だと確信して生きていたから。自分みたいに気持ち悪くて、いるだけで周りを不快にして、いいところなんて何もない人間は、周りからいじめられて当然だと思っていた。自分は人間の劣等種で、存在する価値もない人間であると、そう思っていた。

 そしてだからこそ、「自分はいじめられているわけではない」と思っていた。自分はそういう扱いを受けて当然の人間なのだから。周りの人間に悪口を言われ、気持ち悪がられ、煙たがられて当然なのだから。

 



 しかし最近、とある知人にこんなことを言われた。

 「自分はいじめられるべきだ、と思わせるところまでがいじめだよ」

  その言葉は、自分にとって優しい言葉であると同時に、悲しい言葉でもあった。「いじめられるべき人なんて居なし、自分もいじめられるべきでは無いのかもしれない」という安堵と、「やっぱり自分はいじめられていたのか」という落胆の両方があった。

 でも、今まで聞いたことのあった陳腐な言葉とは違いどこか胸に刺さるところがあった。だからこそ気づけたのだろう。「自分はいじめられるべきだ」というのは、間違っているのかもしれないという可能性に。

 これからの自分が見つめるべきは「今の自分」であり、「これからの自分」だ。「いじめられるべき人なんかいない」という言葉に明確な根拠は無いだろう。それと同時に「自分はいじめられるべきだ」という言葉にも確かな根拠は無いのだ。「周りから悪く言われた」「自分は周りに悪影響を与える」というのは、今までの経験であり、自分の主観で感じとったものであって、客観的な事実ではない。

 それよりも、「自分を認めてくれる人だっている」ということの方がよほど客観的な事実に近い。だったら、自分をいじめる人や、自分を悪く言う人よりも、自分を受け入れてくれる人と一緒にいられるように努力した方が賢明なのかもしれない。

 「素の自分のままでいる」というのはHSPの自分にとっては、なんの練習も無しにフルマラソンを走りきることの様に、途方も無く難しいことに感じられる。ついつい周りの感情や表情の変化を察してしまうからだ。

 でもきっと、素のおれのままでいても一緒に居てくれる人達の存在を心から信じることができるようになった時が、「自分はいじめられるべきだ、なんてことは間違っている」と、はっきり言えるようになる時なんだろう。

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