見出し画像

「子どもに勉強させる気はない」妊娠中の人気ユーチューバーの発言に賛否など,メルマガ - 2024/12/23

読者へのメッセージ(小話): イチロー氏、10年ぶり松井秀喜氏と再会。私は野球はあまり興味がないですが、「データで管理された現代野球の流れ」という部分には興味があります。現代野球がデータ分析に大きく依存しているのは、時代の流れとして避けられないことかもしれません。しかし、それを盲目的に受け入れるのではなく、「観客が求めるものは何か?」を問い続ける姿勢が重要です。そして、その答えは、選手個人の成長やドラマ性、観客を引き込むエンターテインメント性の中にあるのではないでしょうか。現代野球を通じて、効率と感情、データとドラマという二項対立をどう解決するかを考えることは、単にスポーツに留まらない、社会全体に通じるテーマとなるように思えます。

■今日のトピック

「子どもに勉強させる気はない」妊娠中の人気ユーチューバーの発言に賛否、「遊びができない子になると思い出話なくなる」と持論を語るも…。るなさんの発言に対する議論は、「勉強」と「思い出」のどちらを子どもに優先させるべきか、という表面的なテーマに見えますが、本質的には「親としての価値観」と「子どもの可能性をどう捉えるか」という問いに帰結する。るなさんの意見は、自身の経験から「遊び」や「思い出」の重要性を強調しており、一見、柔軟で子どもを自由にさせる方針のようです。しかしその裏には、自身の学びに対するネガティブな体験やコンプレックスが影響している可能性があります。ここで重要なのは、親の価値観がそのまま子どもに影響を与えるという事実です。子どもは親と過ごす時間が多く、子どもに対して何も言わなくても親から顔の表情やしぐさなどから様々な情報を受け取るでしょう。そこを考えると「勉強が無理」という発言が、子どもの自己効力感(自分はできるという感覚)をどのように形成するかは慎重に考えるべきです。一方で、ぎしさんの「勉強しても楽しい思い出は作れる」という指摘は重要です。学びは未来の可能性を広げるだけでなく、楽しみや達成感をもたらすものでもあります。たとえば、スポーツや音楽と同様、学びそのものが「遊び」になり得る環境を提供することができれば、るなさんが懸念する「遊びを奪うこと」にはならないでしょう。

社会の視点:勉強の「価値」と親の役割

批判的な意見の中には、「医療従事者は勉強を頑張った人たち」という指摘がありますが、これは「勉強」の価値を社会的役割の観点から捉えたものです。子どもに「遊び」を重視させるか、「勉強」を重視させるかの議論は、親がどの程度社会のニーズを認識し、その上でどのように子どもの将来をデザインするのか、という視点に帰着します。

見えてくる本質的な課題

  1. 親の価値観をそのまま子どもに押し付けない柔軟性の必要性
    子どもが「勉強」を好きになるか、「遊び」を好きになるかは、親が環境をどう整えるかに大きく依存します。親自身の価値観が強く影響を及ぼす可能性を認識し、そのバランスを取る努力が求められます。

  2. 「勉強=未来を切り開くツール」の理解
    勉強は単なる知識の蓄積ではなく、新たな選択肢を生み出すツールです。この視点をどう子どもに伝えられるかが鍵となります。

  3. 「遊び」と「学び」を対立させない環境作り
    遊びの中に学びを、学びの中に遊びを見出せる教育環境や家庭の雰囲気が重要です。これにより、子どもは「楽しい思い出」と「未来を切り開く力」を両立させることが可能になります。

結局、親としての役割は、子どもに対して「選択肢」を与え、どちらの道にも進めるような柔軟な環境を提供することではないでしょうか?もっといえば、子どもに対して選択肢を与えるためには、親も学ぶことが必要です。学ぶことがなければ、世の中にあるたくさんの選択肢を子どもに与えることはできないと考えています。

苦痛に悶えながらも安楽死に反対――難病ALS患者が命を懸けた訴え、生きたいと思える社会を目指して。岡部さんの主張は、「生きているだけで価値がある」という理念に基づいていますが、この「価値」とは一体誰にとってのものなのでしょうか。また、その価値を何によって定義するのかも曖昧なままです。個人の存在価値を社会や他者が外部から評価すべきなのか、それとも本人の主観に委ねるべきなのか。この議論を避けている限り、主張は表面的な美辞麗句にとどまる危険性があります。さらに、安楽死を「自由」として認める社会が果たして本当に自由な社会と呼べるのかという点も問われるべきです。「選べること」が実は新たな選択の強制を生む可能性は否定できません。「生き続けることが負担」とされる社会的な空気が広がれば、選択の自由は名ばかりであり、実態は「生きないことを選ばされる」社会へと転落しかねません。また、岡部さんが訴えた「生きたいと思える社会」とは具体的にどのような姿を指しているのでしょうか。それは福祉の充実なのか、社会の認識の変革なのか。それとも、単なる理想論に過ぎないのでしょうか。この問いに正面から答えずして、「尊厳ある生」を主張するのは責任ある議論とは言えません。「生きているだけで価値がある」との言葉が真に意味を持つためには、その価値がどのように社会や個人にとって実感されるものとなるのか、具体的な道筋を示す必要があります。そうでなければ、それはただの耳障りの良いスローガンに過ぎません。

「【過疎地にポツンとローソン】“スーパーが撤退した村”に出店 オープンから2か月が経過「続けることが一番大事」 地元の野菜やオーナー買い付けの肉・魚も並ぶ店内...地域住民が集う『交流の場』に」という記事で本質を鋭く突き詰めると「地域社会の持続可能性」と「現代の地方創生の限界」が浮かび上がり、課題などは以下になります。

ここから先は

918字
このマガジンを購読すると、役立てる情報をお届けいたします(「死への恐怖」や「人生の本質」といった普遍的なテーマをもとに、時代の本質を鋭く洞察します。 )。定期的に読むなら購読の方がお得です。

思春期から抱いてきた「死への恐怖」や「人生の本質」といった根源的な問いは、私に深い探求心を与えると同時に、市場の変化を敏感に察知するための…

よろしければ執筆費用をサポートお願いします!助けてください。