ピーチジュース
塾が入ったビルの階段に座って単語帳を眺めていたら、後ろから肩をとんとんと叩かれた。
「これ、差し入れ」
振り向くと同じクラスの渡木がいた。一階の自販機で買ったらしいピーチジュースを手に持っている。渡木の手は水滴で少し濡れていた。
「ありがとう」
それを受け取ると、渡木はそっぽを向いて言った。
「俺じゃないよ、白井から。渡しといてって言われた」
白井?白井くんは塾でいつも隣の席に座っている男の子だ。
「なんで白井くんから?」
「お前今日タンジョービだろ」
タンジョービ、タンジョービと何回か頭で唱えてから、しっかり「誕生日」に変換された。そうか、私は今日誕生日なのか。
「忘れてた」
「まあ、今日は学校も休みだったしな」
「白井くんはどうして渡木に?」
それに渡木は答えなかった。聞こえていないふりをしているようだった。踊り場にある大きな窓に渡木ははあっと息を吹きかける。曇った窓に何か文字を書いている。
「あ、俺も」
そう言ってジャージのポケットからくしゃくしゃになった小さな袋を取り出した。Present For Youと書かれた金のシールが貼られている。
「はい、これ」
口をむっとさせながら、不機嫌そうに渡してくる。私は渡木が自分の誕生日を覚えていること、プレゼントが包装されていることに驚いていた。
「あ、ありがとう」
私が受け取ると、渡木はすぐに手を離しまた外を見た。
雪が少しずつ降り始めていた。道が白で覆われていく。窓に何を書いたか分からないまま消えていく。渡木とはそれからしばらく目が合わなかった。私はなんとなく、ここでプレゼントを開けられなかった。
ピーチジュースの蓋を開ける。雪にはあまりにも似合わない。単語帳とは少し合う。ピーチ、のスペルを頭に思い浮かべる。peachはpeaceと一文字しか違わない。飲んでみると、頭がすっきりした。私はまた単語帳に目を落とした。
渡木はまだ外を見つめている。そこに渡木がいる、と思うと単語帳の文字が入って来なくなってつい話しかけてしまった。
「あと少しだね」
「うん」
「渡木は受かりそう?」
「いや、分かんない」
また渡木は窓に息を吹きかける。それを見ていたら私も何か書きたくなった。階段を一段、二段と上がり、渡木の隣に並ぶ。口を窄めて息を吐く。私はpeachと書き、桃の絵を描いた。渡木はなぜか「白井のバカ」と書いていた。
「受かったらまた一緒の学校だ」
「白井も」
「そっか。白井くんも同じ学校受けるんだ」
「うん」
「みんなで受かるといいね」
「うん」
渡木の点数が伸び悩んでいることを知りながら、私はそう言う。白井くんはきっと受かるだろう。私は、どうだろう。
階段はとても冷たい。前の授業が終わったようで、わらわらと生徒が廊下に出てくる。私たちの静寂は破られ、空間が騒がしくなっていく。生徒の中には白井くんの姿もあるだろう。ピーチジュースのお礼を言わなければならない。でも、もう少しだけ渡木とこの不安を共有したかった。渡木はさっきから一点を見つめている。度の強い眼鏡は何を映しているのだろう。と思っていると、渡木は途端に何か絵を描き始めた。
ケーキ、苺、「happy birthday Sasaki」と書かれたチョコプレート、リボンを咥えた小鳥が三匹、そしてクラッカー。
「佐々木、誕生日おめでとう」
あまり嬉しくなさそうな低い声で呟く。私たちは向かい合う。何かが反射しているのか、二人とも頬がオレンジ色に染まっている。
「人来るから、蝋燭消してよ」
窓に浮かぶ誕生日ケーキ。私を祝う小鳥たちの歌。ビルの片隅で、私は十八になった。手に持っていたピーチジュースと単語帳を床に置く。腕をまくると、五本の指を大きく広げて蝋燭を消した。