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ファッションによる選択と集中の強制〜"人生の垢抜け"のためにイシューからはじめよ〜
ファッションビジネスにおける自分の優位性の一つに、
「あらゆる社会的問いをファッションに接続して共有できること」があると思っている。
Instagramやnoteの発信においてもこの視点をある程度一貫させているつもりだ。
そしてこれはコンセプト/ルールメイキングのような概念に近い。
この前提にはファッションが"内界と外界のインターフェース"であるという考え方があり、
そこに孕んだ矛盾を問いに変換して解決していくプロセスを広義に"ファッションする"と捉えている。
もはやファッションの文脈同士を接続して再編集するだけの従来のファッションセールス像には価値を感じないのだ。
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では改めて僕のやりたいこととは何なのか、
ざっくり乱暴に説明すると、
「ファッションを起点とした選択と集中の強制」である。
ファッションという身近で手軽な選択に"自己表現のリスク"をポジティブに乗せ慣れることで、人生の選択においてもポジティブにリスクを取れるようになるのではないかという社会実験に近い。
ファッションを起点に自分の人生動機を駆動させる。
まさに「人生の垢抜け」計画とでも呼ぼう。
女性が自分に合うメイクアップを見つけていくように人生のメイクアップも上達させるのだ。
これによって主観と客観が加速度的に更新され続け、生き方にブレイクスルーを起こす。
詰まるところ「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」というシンプルな提言でしかないのだが、それが意外と出来ないからこそ、わざわざファッションに紐づけて"習慣化"を促している。
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昨今のコンテンツ乱立時代に入ってからというもの、
"良コンテンツのぬるま湯"にずっと浸かっていられる快適さ故に「何が好きか」をわざわざ語るリスクから遠ざかり、「流行」の共有ばかりがひたすら繰り返されている。
一方、活字のSNSでは少しでも不快感を抱いた「何が嫌いか」が条件反射的に溢れかえる始末だ。
ぼーっと生きていてもなんとなく幸せを感じられる豊かさに甘んじながら、少しでも不平不満があれば声を大にして叫ぶ今の社会像そのものである。
選択と集中のリスクを避けながら権利や感情だけを主張する「ゼロリスク世代」の全盛期だ。
そんな世代に一石を投じるのが、「ファッションを起点とした選択と集中の強制」なのだ。
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多様性の暴走や情報共有の過剰化によって分散した文脈を、今一度ファッションを起点に手繰り寄せることによって、自分の"人生の文脈"が徐々に明確化し、時間を割くべきコンテンツを認識出来るようになる。
芸能人の不倫や大谷翔平のホームランなんかよりもずっと最適なコンテンツに出会い続けられるアルゴリズムが生成されるということだ。
例えば、今までシンプルな服をただ適当に着ていた人がシンプルな"ファッションをする"となった場合、
そのシンプルさの中に建築やアート曲線的観点など様々な美意識が入っていき、ミニマリズムや真善美のような概念が自分の人生の文脈を形成し始める。
そうなると、同じシンプルでも、ただ経済合理性の中にしかなかった選択肢が無数に広がり、
例えばいつか結婚して家庭を持った時にも、どんなにシンプルな料理が食卓に並ぼうが、食文化に合わせた盛り付けやテーブルクロス、食器選びなどの美意識がその場を彩り続けるのだ。
少なくとも僕は、両親からそういう美意識を教わった。
これは#丁寧な暮らし みたいなSNSを前提としたパフォーマンスの一貫などではなく、完全に"人生自体の垢抜け"なのだ。
ファッションに慣れていてないとなかなか自然にはできない。
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最後に一つ釘を刺しておきたいのが、
選択と集中の強制とは「ファッション好きが中毒症状の延長で薄っいカウンターと浪費を繰り返すこと」を指しているのでは決してない。
あくまで「ファッションと人生の選択と集中が"一貫して行われていること"」を重要視しているのだ。
生き方のユニークさやアグレッシブさがファッションと紐付いて誘発し合うことが面白い。
"低所得だけどサンローランを着たい"みたいな矛盾を、"どんな人がサンローランを着こなせるのか"みたいな問いに変換して、人生の一つ一つ選択と共に必死に解決していくプロセスにこそ価値がある。
そうやって人生を垢抜けさせて、ポジティブに好転するきっかけのために、僕はこれからもファッションを共有していきたい。