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短編小説『KOHHI ―叩扉―』

 ちょうど、除けておいた一文をどこに挿入すべきか悩んでいた時だ。

 高い女の声がしたような気がして私は顔を上げた。もし、もしと声は呼ばわっているようである。耳をすますうちに玄関のガラス戸を叩く不協和音まではっきりと聞こえてきて、私はああと呻いて書いていた小説をパソコンに保存した。

 集中していたのがすっかり気が削がれてしまった。掛け時計を見上げれば時刻は夜の二時である。私のルーティンからすると夜はこれからといったところだが、人が訪ねてくるには遅すぎる時間だ。諦めないかと待ってみたものの声はやまず、仕方なく私は文机から離れた。

 仕事場にしている和室から廊下に出てみれば、声はいっそう明らかだった。

「もし。もうし」

 そればかりを繰り返して、合間に戸を叩き続けている。私が冷たい廊下を急ぎながら、はいはいと応えてもやむ気配がない。せめて来意でも告げれば少しは気が利いているものを、声の主は執拗に戸を叩いてはそれしか言葉を知らぬように「もし。もし」と繰り返していた。

「はい。どうされました?」

 三十年ばかりを村で過ごすうちにすっかり毒されてしまって鍵をかけないようになってしまったガラス戸を引き開けると、ようやくそこで声はやんだ。

「暇乞いに参りました」

 そう言ってひとつ頭を下げたのはずいぶんと古風な女だった。といっても江戸や明治といった話ではない。顎で切った短い髪へ段々にハサミを入れた髪型――たしかシャギーとかウルフとかいっただろうか、私が若かった頃はこういう頭の女がたくさんいて、ご多分に漏れず妻もこんなように髪を整えていたものだ。年の頃は三十を超えて少ししたくらいか。服装は真っ白なタートルニットに、これも白いフレアスカートを合わせたもので、それぞれには黒い縦と横の線がまるでアートのように織り込まれている。光の中に歩み込んできた足元は、懐かしい厚底のローファーだった。

「暇乞いって」と私は頭を掻きながら言い、そういえば起きてから櫛ひとつ入れてないのだったと思い出して、なるべく自然に見えるよう手ぐしで前髪を撫でつけた。
「長らくお世話になりました」

 女はそう言ってまた頭を下げたが、心当たりが私にはなかった。

「ええと。申し訳ないんだけど、どこの人かな?」
「八尾の」と女は言った。

 はあ、と私は間抜けな声をあげて村の地図を頭の中に広げた。人口四千人のこの村に引っ越してきたのが約三十年前、それから組合だ寄り合いだと駆り出され、いくつかの本を上梓し、いつの間にやら先生と呼ばれるようになって、村のことで知らぬことはもうないと思っていた。

「八尾というと、どのあたりだろう。畑のあたりかな」

 村の南方に広がる畑は土地の呼び方が込み入っていて、役場を境にカミとシモに分けられる区域図では表せない。

「いえ。辺りは工場と、遠くにマンションと。あとは電車が通っていました」

 だとすると、この女は村の住人ではない。農業と申し訳程度の林業で成り立っている村は工場だ電車だといった第二次産業の申し子とは無縁だ。バス停ですら村道をずっと西に行ったところにしかなく、ましてやタクシーなど、村内を走った日にはそれだけで噂になるほどである。

「それはまた遠いところから。しかしあれだね、それがどうやってこんな夜更けに。どなたか親戚のところに泊まっているのかね?」
「戸松にしばらく」

 戸松というと、村唯一の電気屋の屋号だ。たしか旦那さんと奥さん、ずいぶん前に都会へ出て行った娘さんの三人家族だったと思うが、親戚がいるなんて話は聞いたことがなかった。

「じゃあ、お名前は小川さんか」と、私が戸松電気店の夫妻の苗字を挙げると女は首を横に振った。動きに合わせて毛先が左右に振れ、その頬を優しく叩く。それはいかにも懐かしい光景だった。寸の間、見蕩れた私に女は告げた。
「名が必要と仰せなら、町田というのが相応しいでしょう」

 妙な言い方だった。本名を告げては差し支えがあるとでも言うのだろうか。

「じゃあ、町田さん」ともかく私は言った。「わざわざ挨拶に来てもらって申し訳ないんだが、あなたに心当たりがないんだ」
「それはそうでしょう」と、女は笑んだ。その薄桃色の唇が真面目そうな一文字から笑みの形を象るまでの軌跡がやけに生々しく思え、私は一度目を瞑って邪念を払った。
「ええと、ほかにご用件は?」

 あるとの応えを確信しながら私は尋ねた。別れの挨拶を言う為だけなら、こんな非常識な時間を選ばないだろう。村の誰かから噂を聞いたに違いないが――そこまで考えて私はあっと声をあげた。

「もしかして、遊びに来てた子かい」

 妻がいた頃のことだ。彼女とのおしゃべり目当てにやってくる大人の後ろにちょこんと子どもがくっついていることが時々あって、もちろん子どもにとって大人のおしゃべりなんて退屈なだけである、暇を持て余した彼らに趣味でこしらえた苔庭を台無しにされてはかなわないので、遊び相手になってやったことがあった。

「旦那様と奥様には大変お世話になりました」女は薄桃色の唇を鮮やかに引いて言った。「その上にこうしてご迷惑をおかけして。厚かましいかとは思ったのですが、それでもひとつお願いを叶えて頂きたくて参りましたの。旦那様はいろいろな頼み事を聞いていらっしゃるとか。わたくしのお願いも叶えてはもらえないでしょうか」
「ああ、だと思ったよ」

 困ったような嬉しいような、複雑な気分で私は後ろ頭を掻いた。

 私と妻が村に越してきた頃、ずいぶんな噂が出回っていたとのちに聞いた。新しく越してきた夫妻の旦那の方、あれは変だ、挨拶のひとつもよこさないし顔だってちっとも見せやしない、もしかすると妙な病気にかかってて療養に来てるとかかもしれない。そんな噂が老人たちの間で出回って、妻は彼らから一時期つまはじきにされていたらしい。気の強い妻はそこで私の生業が小説家であることを明かし、人前に出てこないのは当然だ、なんせあの人は夜型なんだからとぶち上げた。

 しばらくして、ようやく脱稿した私がよれよれ村を散策していると妙なことに出くわした。名前も顔も知らない老人たちから「先生、先生」と親しげに呼びかけられるのである。薄気味悪く思って歳の近いのを捕まえて事情を聞いてみると、前述のあれそれと村人たちが図書館に詰めかけて私の本を読んでいるという話を聞かされた。

 参ったのはその後である。おらが村には小説家先生がいらっしゃる、そう思うのは村人の勝手なので放っておいたら、彼らは次に我が家へ押しかけるようになった。小説家というからには偉い大学を出た頭の良い先生に違いないという、いつの時代のものかわからない思い込みに支配された彼らは口々に教えを請うた。といっても、大学の講義みたいなものを求めてきたのではない。娘が色気づいて困ってるとか、ニュースキャスターを見て旦那が鼻の下伸ばしてるとか、なんでも相談室がわりにされたのである。

 もっとも中には思い詰めた顔をした人もいて、そういった人は大抵の場合、夜闇に身を隠すようにやってきては戸を叩いてきた。誰かひとりに目撃されれば次の日には誰もがその情報を把握している村のことである。さもあらんと私は――渋々ではあったものの迎え入れ、いつの間にかそれは常態化してしまったというわけだ。

「立ち話もなんだね。寒いし、中へどうぞ」

 私は女――町田を応接間へ案内しながら考えた。さて、こんな非常識な時間にやってくるくらいだ。よほど周囲には知られたくないのだろう。相談の内容は亭主に殴られているか、どこかの若いのに抱かれてしまったか。それとも親の世話を言いつけられて家から出してもらえないといったところか。

 応接間に町田を通してお茶を出し、願いとやらを話すよう促しても彼女は口を開かなかった。ただじいっと押し黙りながら、なにか懐かしいものでも見るように部屋の中を見渡してばかりいる。そうしてようやく口を開いたかと思うと、彼女は「あれは」と一言だけ呟いた。

 町田の視線を追った私は「ああ」と頷いた。そこには若い妻と私が海を背景に笑っている写真を安い額縁に収めたのが飾ってある。

「妻と、私だよ。若いだろう」
「懐かしい」と、町田は呟いた。「あんなに笑ってらしたのに。最期はとても苦しまれたと聞きました。あんな病気にさえかからなければ今ごろ」

 苦悶の光景が久方ぶりに目の前へ立ち上がってきて、けれどもそれはかつてのように私を苦しめはしなかった。まるで無声映画の一場面のように、その光景は感情や思考と切り離されたところに存在しているばかりだ。それでも思い浮かぶ痩せこけた頬の灰色、きつくシーツを握りしめた拳の震えは私の喉を締め付けたが、それも一瞬のこと、町田がこちらをまっすぐに見つめなおした頃にはすっかり霧散していた。

「本当にお悔やみ申し上げます」

 町田はつらそうに囁いたが私は穏やかに頭を振った。

「いいんだよ。もう終わったことなんだから」

 しばしの理解の間を置いてから、町田はもの言いたげな顔つきをした。

「君の思ったようなことじゃない。妻はね、もう終わったんだ。痛いこと、苦しいこと、全てを終えて今は楽土にいる。わかるかい、私たちが彼女の痛みや苦しみを思うのはもう違うんだ。ご苦労様でしたと安らかにのふたつを唱えるだけでいいんだよ」

 そうですか、と町田は下を向いて、しばらくの間そうしていたが、やがて決心したように顔を上げた。

「旦那様、お願いしたい件なのですが。わたくし、旦那様に勝負を挑みたいのです」
「勝負だって?」
「はい。わたくしが勝ったら旦那様にはわたくしの言うことをなんでもひとつ聞いて頂きます。逆にわたくしが負けたなら、わたくしは旦那様の意のままになりましょう」
「なんでも、ひとつ?」

 思わずごくりと喉が鳴ってしまって、即座にその理由に気づいた私はうろたえた。とっさに逸らした目が、しかしありありと町田の白い肌やなめらかな仕草を映し出す。こんな深夜にいまだ三十の女盛りがひとり、その事実が頭の中をぐるぐると駆け巡った。まさか顔が赤くなっていやしないか、焦りをつのらせる私に町田は言葉を重ねてきた。

「なんでも仰せの通りにします」

 一瞬にして脳裏をよぎったのは女の血潮、それがもたらす肌の熱さだった。駄目だ駄目だ、それでも私は必死に唱えた。そんなことをした日には、これだから都会から来た者は、小説家先生と思ったらとんだけだものだったと村中が噂するだろう。そんな私に悪魔が囁いた。なにを恐れることがある、今は深夜だ、誰も見てやいないさ、だからこそ女もここに来た、そうだろう。

「勝負の内容ですが」悪魔と戦う私のことなど知らない顔で町田は言った。「旦那様は第七の封印という映画がお好きだそうですね」
「あ、ああ」と、私は無闇に頷いた。
「なんでも、ある騎士が死神と勝負をする話だとか」
「チェスだよ」

 ポケットを探りながら私は言った。中にハンカチの一枚でも入っていないかと思ったのだが、そういえば妻を喪って以来、私の身だしなみを気にかける人はいなくなったのだった。

「チェスというのは?」と、町田は首を傾げた。
「西洋風の将棋みたいなものだね。映画の主人公はそいつが得意なんだ。主人公に死をもたらそうとやってきた死神に、得意のチェスで勝てたら見逃してくれと交渉してどうこうって話さ。いやしかし、君は変わっているね」
「そうでしょうか。わたくし、そんなに変ですか?」
「変も変さ。こんな深夜にやってきて、困りごとかと思えば勝負をしたいだなんて」
「お受け頂けますか」

 町田が微笑んで言ったので、私は腕組みをした。

「構わないがなにで勝負をするんだい。君はチェスを知らないんだろう?」
「マルバツゲームではいかがでしょう」

 あまりに予想外の提案をされたものだから、私は考え込んでしまった。はて、マルバツゲームと言ったら縦三つ横三つの計九つからなるマスにマル印とバツ印を交互に書き込んでいく遊びだと思うのだが、それ以外に同じ名の遊びがあっただろうか。

 唸り声さえあげた私がよほど面白かったのか、町田はぷっと吹き出した。

「旦那様の考えるゲームで間違いないと思いますよ」
「そ、そうかい。いやあ、てっきり囲碁とか将棋とか、せめてトランプで神経衰弱とか、そういうもので勝負すると思ったものだから」
「申し訳ございません。わたくし、毎日が仕事ばかりで。遊びには詳しくありませんの。知っているものと言ったら、かつて見たものしかなくて」
「いやいや、君がいいなら私は構わないよ。どれ、紙を取ってこよう」

 そう言って私は腰を上げ、いったん仕事場まで戻ってネタを書き散らすのに使っているコピー用紙を幾枚か取り上げ、ボールペンを二本探しだした。そうしながら、ついにこらえていた笑いを爆発させた。仕方なかろう。映画が高尚かどうかなど私にはわからないが、それでも第七の封印が名画に類されることは間違いあるまい。それがどう転んだらマルバツゲームなんて小学生みたいな遊びに至るのか。大真面目な町田の表情を思い出せばなお面白くて、応接間へ戻るまで私はくつくつと笑い続けた。

  *
 
 結論から言ってしまえば、町田はとんでもない下手くそであった。どの程度かと言ったら、幼稚園児相手の方がまだ楽しめるほどである。最初のゲームなど私は早々にマル印を三つ揃えてしまって、では私の勝ちだねと申告するのが申し訳なく思うほどだった。

「何回戦とは言っていませんでしたでしょう」

 斜めに並んだマル印を見つめて町田は言ったものだ。敗因を大真面目に分析しているのか、口元に手を当ててなにやら考えながらだった。

「たしかにそうだね。じゃあ、七回戦でどうだい」
「先に四回勝った方が勝ちというわけですね」
「いやいや、それでは君が不利だよ」私は笑って言った。「七回勝負して、そのうち一回でも君が勝てたら君の勝利としよう」
「よろしいのですか」

 きらりと町田の目が光ったように思った。この腕前で勝てると本気で思っているのか。そう思うと笑いがこみ上げてきたが、私はそれを苦労して飲み下し頷いた。

 そういうわけで六回戦って、六回とも私が勝った。単純ゆえに引き分けることの多いこのゲームにおいてその結果とは、町田がいかに下手かを表わすに十分だろう。しかし、こうなってくると彼女へ言い渡すことを真剣に考えなくてはならない。なんでもひとつ言うことを聞く約束、妙齢の女性相手には結構な難題である。

「奥様のご病気はなんだったのですか」

 にやにやとしたくなる思考の曇りを必死に払っていた時のことだったから、その質問は全くの不意打ちとなって私の胸を刺した。

「あ、ああ。なんといったかな、そう、胃腸が悪くなってしまって」
「ひどく吐き戻していらっしゃいました」

 それは第二段階だ、と私は胸の内で呟いた。最も初めの頃は最近なんだか胸がムカムカするのよと言っては六君なにやらという漢方薬をやたらと飲んでいた。次第にしゃっくりが止まらなくなって胸焼けもひどくなってきたと訴える妻に私は言った。なにか大変な病気かもしれない、診療所に行ってきたらどうだい。

 村にはひとつだけ診療所があって、都会から来た若い医者が詰めていた。当初は理想に燃えていた彼は、しかし、村人のいじめにも似た要求に段々と潰されていき、妻が診てもらった頃には光のない目をしていたように記憶している。

「医者は心配することはないと言っていたんだがね」

 診断は逆流性食道炎ではないかということだった。それがまさか死に至る病になろうとは、妻は想像すらしていなかったに違いない。

「あの医者はヤブでしたね」と、バツ印を書きながら町田は言った。
「そんなことを言うものじゃないよ。彼も大変だったんだ」
「けれども、誤診だったのでしょう。その上、夜逃げをしてしまって。あれさえなければ奥様のご病気はあれほど篤くならなかったでしょうに」

 妻が食事を吐き戻すようになったのは、診療所にかかっていくらもしない頃だった。この薬、本当に効いているのかしら。そうこぼしながらも妻はそれを飲み続けた。そうするしかなかったからだ。

 あのヤブ医者がとうとう逃げだしたらしい。そんな噂が回ってきていて、そうなると病院は村から一時間半も車を走らせた先に個人経営の内科が数軒あるきりだった。もっとも、それらは付近の住民を受け入れるので精一杯といった具合だったから、四千人の過半数を老人が占める――しかもその大半はどこが悪いとかではなく話をしたいだけときている――村の受け皿となり得るものでは到底ない。ほかに病院といったら、町からさらに車を走らせた先の総合医療センターしかなく、車を運転できない妻はだからこそ遠出を嫌がった。

「無理にでも引っ張っていけば良かったと思っているよ。往復五時間なんて妻の命に較べれば、いや較べられるものじゃなかったのに」
「奥様は、旦那様の小説を愛していらっしゃいました」
「そうだね。一番の読者だった」

 私にとって朝とは仕事が終わる時間だ。夜が明けて七時になると新しく書いたところまでをネットの共有フォルダにアップロードしてから布団を敷く。そうして私が眠っている間に妻はフォルダの小説を読んでおいてくれた。夕方近くになって目覚めると、ご亭主様の朝刊よろしく妻の感想文が居間のテーブルの上に置かれている。私は出されたコーヒーを片手にふむふむとそれに目を通し、バターが塗られているパンをかじりながら今日書く分の構想を練る――それがかつての習わしだった。

「本当に愛していらしたのですよ。朝は眠そうに起きていらっしゃるのですが、タブレットに目を留めるとそれは嬉しそうな顔をなさるのです。うきうきとした手つきで旦那様の書いた小説をご覧になって、今日は進んだのねとか調子が悪いのかしらとか、そんなことを呟きながら画面を撫でておられました」

 マル印を書く手が思わず止まった。じわりと胸になにか黒いものが兆す。

「まるで見てきたように言うんだね」

 そういった声は自分でも驚くほどに低かった。それから書いたマル印を町田はじいっと眺めながら頷いた。

「まるでではございませんの。わたくし、見ていたのですわ。奥様が紅茶とパンをお召し上がりになりながら旦那様の小説を読むところも、お膳を片付けてから真剣な顔で便せんに向かうところも、全部見ておりました」

 うちに子どもを泊めたことなんてあっただろうか。過日を思い返してみたが、どうしても私でなければならないこと以外は妻に丸投げしていたものだから、思い浮かぶことはひとつもなかった。そのどうしてもにしたって年に数回がせいぜいだったと記憶している。

 仕事場から引っ張り出される私を見送る妻は、ああそうだ、ひどく迷惑そうな顔をしていた。人恋しい老女が何時間も玄関にかじりついたところで、垣根というものを知らぬと見える村人が家に入り込んで勝手に常備菜を食っていたところでニコニコと笑っているものが、私が連れ出されるとなると途端に眉間へ皺を寄せる。まるで夫を取られるのを嫌がっているように見えて、私は内心で喜んでいたものだった。

「奥様は心から旦那様と、旦那様が作り出す言葉の世界を愛していらした」

 追憶を破った町田の声は、同時に私の胸のどこかにある薄皮をちりりと掻いた。

「ああ、残念だよ。彼女ほど私と私の書く小説を理解してくれた人はいなかったのに」
「それは本心からのお言葉ですか?」と、町田がバツ印を書きながら言ったので私は頷いた。
「では、どうしてあのようなことをなさったのですか?」

 斬り込んできたその言葉は、手元の印とは違って鋭い白刃のきらめきをまとっていた。息を呑んで私は紙面から顔を上げ、そして正面からこちらを見ていた町田の目に射貫かれた。彼女の目は凪の海のように静かで、それゆえに暗かった。その暗さは何者をも飲み込み、より深みへと引きずり込もうという引力に満ちているようであった。

「あのようなって」

 飲み込む唾さえないほど渇いた口からはうわずった声しか出なかった。

「奥様の食事に混ぜものをしておられましたね。最初は数滴、恐る恐るといったご様子でしたが、段々と大胆になられた。そうして奥様が不調を訴えるようになられると、旦那様は嬉しそうに帳面になにか書いておいででした。申し訳ございません。覗き見をしたかったわけではないのですが、働くには立ち尽くしているしかなかったもので、すっかり見てしまったのです」

 脳裏にひらめいた光景は、なぜか第三者の目線になっていた。台所に立った私が妻の味噌汁椀に洗剤を数滴落とす。私自身の表情は影になってわからないが、その手つきが実験じみていることだけは明らかだった。

「なにを言っているのか、わからないな。それに君、その言い方じゃ君がずっとうちの台所に詰めていたようじゃないか」

 そんなわけがない。あの時は私以外、台所には誰もいなかった。今日は私がディナーを作るよと言って妻を台所から追い出したのだ。間違いない。妻の具合が悪くなって床に居着くようになってからは、そんな言い訳さえ要らなくなって私はそれをひどく喜んだ。とてもとても楽しみだった。

「その通りですわ。わたくし、あそこで仕事をしておりましたから」

 町田はすっと右手を挙げて台所の方を指差した。

「君はいかれているのかい。うちは料理人なんて雇ってないし、私と妻以外の人間なんてあの頃は台所に出入りしていなかった。それをどうやって、いや、そもそもよくもそんな世迷い言を。それじゃあなんだね、君は私が妻を殺したとでも言うのかい」
「殺したのは毒ですわ。でも、それを盛ったのは旦那様、あなたです」
「私じゃない!」私は叫んだ。「そもそも妻は病気で死んだんだ。毒を盛られただって!? だったら、そう診断が出ているはずだろう!」
「出るわけがありませんわ。だって、それがわかる頃には奥様は断固として病院に行かなくなっていたのですから」

 旦那様ならご存知でしょう、と続けて町田は私の目を覗きこんだ。

 そう、そうだった。一応の夫らしい対応として私は幾度となく病院へ行くよう妻に勧めた。けれども、妻はそのたびに首を横に振ったのだ。ここで死なせてください、そう死期を悟った目で懇願してきた。

「どうしてあんなことをなさったのです?」

 再度の質問に、もう耐えられなかった。薄皮が心のどこかで破けるはかない音がして、同時にバラバラと場面が眼前に降り落ちてくる。進まぬ筆、積んだ資料の山、ネットのやくたいもない記事、そこへ茶を持って現われた妻、その頬は健康そうでほんのりと赤みがさしていた。そうだと思ったのだ。資料ならここにあるではないか。

「書けないんだ」

 告白は惨めな音をしていた。握りしめたボールペンで紙面にマル印を書く。筆圧が高すぎたと見えて紙が三角に縒れて破れた。即座に町田がバツ印を書いた。

 この勝負も私の勝ちだ。確信して、けれども私の心はすくみきっていた。

 もし勝負に勝ったなら、町田はなにを願うつもりだったのだろう。仇討ちか、それとも罪を告白せよとでも言うつもりだったか。だが、試みは破れた。私はこのまま、病気で妻を亡くした小説家として生き続ける。たとえ敗れた町田が説得してきても聞く必要などない。なにせ証拠はひとつもないのだ。残っているカルテには逆流性食道炎としか書かれておらず、指紋やなにやもとっくのとうに失われている。たとえ町田が私を告発したとしても世間はまともに受け止めないだろう。すくみながら私は笑った。説得に失敗した町田がもし包丁など持ちだしてきたなら、むしろそれは好都合だ。男女の膂力は違うのだから簡単にねじ伏せられるだろう。そうして町田を殺人未遂で警察に突き出すのもいいし、そのことを言わないかわりにそちらも黙っていろと交渉するのもいい。

 だからこそ、私はこう言えた。

「経験したことがないことを私は書けないんだよ。あの時は母に殺される娘の話を書いていた。母が娘を憎む気持ちは理解できた。母がどうやって娘を殺すのかも決めた。だが、そこで行き詰まった。母がなぜ卑近な手段を選んだのか、そもそも衰弱とはどのようにしていくものか、わからなかったんだ」
「なるほど。では、こういうことですのね。奥様を殺したのは毒ではなかった。奥様自身だったと」

 意味を掴みかねて瞬く私に町田はどうぞと紙面を示した。次は私がマル印を書く番だ。そしてそれを書けば勝負は決する。町田の勝ち目はもうひとつもなかった。

「奥様は旦那様と、旦那様が作り出す言葉の世界を愛しすぎていたのです」

 動かない私のかわりに町田がマル印を書いた。見当違いな場所に書かれたそれによって勝負は引き分けとなったが、それでも七戦中六勝した私の勝ちは確定だ。

「やはり気づいておられなかったのですね」町田の声はどこか気の毒そうな響きをしていた。「奥様は全て承知しておられましたよ。そもそも、台所にあるような品を毒にしようだなんて考えが幼いのです。そんなのはすぐに露見するに決まっています。味がおかしくなりますし、少し混ぜれば泡だって立ちますからね。それをどうして奥様は全て飲み下していらっしゃったのか。ようやく合点がいきました。日々、旦那様の呻吟を読んでいらっしゃったから、もしかすると旦那様ご自身よりも旦那様の描かれる世界を愛していらしたから」

 愕然としている私に町田はにっこりと笑いかけると、わたくしの負けですわねと言って立ち上がった。

「どこへ行くんだ」

 戸口へ歩いていく背中に問いかけると彼女は背中で言った。

「さあ、どこでしょう。きっと奥様と同じ場所だと思っていたのですが、旦那様のお話を聞いて怪しくなってしまいました」
「君は本当は誰なんだ」

 ふふっと声に出して笑って町田は戸を開けた。途端に冷たい風が吹き込んでくる。私と町田が交互に印をつけた紙が飛ばされていき、視界の隅で箪笥にぶつかって滑り落ちた。

「ああ、でも」笑い声交じりに町田は言った。「旦那様がその時書かれたご本、きっと片手落ちですわね」

 私は瞠目し、カッとなって叫んだ。

「なんだと! あれは完璧な作品だ! いくつも賞を取って、映画にもなったんだぞ!」
「だって、旦那様。これまで奥様の情に気づいておられなかったのでしょう? 経験したことがないことは書けない、でしたら、奥様のお気持ちは書いておられませんよね」

 そう言って振り返った町田の顔は月光を映してぞっとするほど白かった。白いニットとスカートも自ら光をまとうようで、その立ち姿はとてもこの世のものとは思えない。

「消えろ! 今すぐこの家から出て行ってくれ!」
「願いはそれですのね。承知しました。では、ごきげんよう旦那様。どうかいついつまでもお元気で」

 その一言を残して町田は立ち去った。軽い足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなり、幾ばくかの間を置いて玄関のガラス戸がきしきしと音をたてるのを私は呆然と聞き――おそらくはそのまま寝入ってしまったのだろう。

 目を覚ますとあたりはすっかり明るくなっていて、時計を見てみれば朝の八時だった。常ならば寝入って少しした頃だが、眠気らしきものはさっぱりない。仕方なく私は伸びをしてから立ち上がり、コーヒーを淹れようと台所へ立った。ドリッパーをセットして、水音がしている間にパンを焼く。バターを温めなければと冷蔵庫を開けて腰をかがめ、そこで私は違和感を抱いた。

 なにがおかしいのだろうと寝ぼけた頭で考えてみて、暗いのだと気づいたのはすぐだった。冷蔵庫の扉を開けるとつくはずのランプがついていない。扉の開閉で上下するスイッチがあったはずと探してみて、もうひとつ気づいた。冷蔵庫の中にひどく生ぬるい温度がわだかまっている。電気が来ていないはずはない。その証拠にトースターもドリッパーも順調に動いている音がしている。冷凍庫はと開けてみればこちらもぬるくなっていて、放り込んでいた冷凍食品から水滴がしたたっていた。

 畜生と口汚く吐き出して私は扉を閉め、これからの予定に一行加えた。ともかく戸松電気店へ行って新しい冷蔵庫を買わねばなるまい。いや、思わず罵ってしまったが、考えてみればこの冷蔵庫は働き者だった。購入したのは妻と結婚してすぐ、応接間に飾ってある写真を撮ったのとちょうど同じ頃だ。そうと思えば愛おしさが湧いてきて私は冷蔵庫の扉を撫でた。

 家電製品とはひとつが壊れるとまたひとつが壊れるものだという。この家にあるものはほとんどが冷蔵庫と一緒に買ったものだ。洗濯機や電子レンジもついでに見繕っておいた方がいいだろう、と私は予定にもう一行を加えた。

   *

 以来である。夜ごと、誰かが家を訪ねてくるようになった。彼らは女であったり男であったりと性別は様々だが、共通して年の頃は三十代、古風な身なりをしていた。それが私に勝負を挑んできては負けるというのが六晩続いた。そして六度とも、翌朝になってみれば家電製品がひとつ壊れていた。一昨日はストーブ、昨日はラジオデッキが壊れた。きっと明日の朝も壊れるだろう。だがその前に、必ず誰かが訪ねてくる。

 誰の差し金か、なんの思し召しかはわからない。けれども最初の夜で致命傷を負った私を、彼らが破壊しようとしていることだけはたしかだった。その先にあるものはなにか。妻の怨念によって地獄にでも引きずり込まれるのか、それとも気でも狂ってしまうのか。わからない。わからないがしかし、ひとつだけ確実なことがある。また夜になれば声が聞こえる。

 無視しても駄目だ。耳を塞いで布団をかぶっていても許されない。声の主はガラス戸を叩きながら私を呼び続ける。逃げ場はない。赦しもおそらくないだろう。最初の晩に言葉の刃を向けられて以来、私はまったく小説が書けなくなった。日々、朽ちていく。磨き上げてきた筆力が衰え、研ぎ澄ませてきた思考が砕け、積み上げてきた語彙が瓦解するのを私は見つめることしかできない。だというのに、なおも彼らは私が敗北する日を待っている。ただひたすらに待って、待って――。

 ああ、今夜もまた声が聞こえてきた。

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保坂星耀
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