賢人もどきの悲観的陶酔感

コロナ禍によって社会の「普通」が変わってしまい、ニューノーマルの時代が来た、という言説はあらゆるメディアで目にするようになりました。
それは正しいのかも知れませんが、本当にそうなるかはもう少し経ってみないと分からない気がします。
むしろ、新しい常識が作られるべきだという要望、意向が働いているようにも思えます。

マスク着用、物理的人間距離、換気・消毒の徹底といった、ウイルス感染対策に対して自由を求める過激な反対運動が欧米では広く実施されています。

日本を含む東アジアに住む人にとっては、それらは特に個人の自由の侵害にならないと見なす人が大半です。息苦しさや面倒くささは当然ありますが、それでも感染しないためには必要だから、ということでほぼほとんどの人は政府や関係各所の指示要望に従います。

それに対して、歴史的に権威主義的な政府があったからとか、個人の自由に関する考えが甘いとか言えなくもないかも知れませんが、言い換えれば命と自由の天秤でどちらを選ぶのかの違いです。

命を選ぶ人は黙ってマスクを付けるでしょうし、自由を選ぶ人はマスクを付けずに狭いバーに集まって夜通しでパーティもするでしょう。

それはそれで西欧の人達がそうするなら勝手ですが、そういった感染対策やテレワークなどで社会そのものが変わってしまうような歴史論・社会論を開陳する人もいます。

そしてそういった、いわゆる社会的地位や知名度が高く、知的レベルも高いと見なされるような賢人っぽい人の言うことが広がっていきます。

しかし、コロナ禍そのものの専門家でもありません。その人にとっての専門はたいていの場合全く別の分野でしょうし、ウイルス感染対策の専門家はそもそも忙しすぎてそんな大仰ぶった意見などまとめている時間などないでしょう。

「社会が変わる」「時代が変わる」といった論説が展開されて、それを取り上げる人も多いのかというと、社会の変化に対していち早く悲観的な見立てをして将来を憂うことによって、悦に入っているようにも見受けられます。

インターネットが普及しても人間そのもの社会そのものは変わるところもあれば変わらないところもあります。コンピュータの普及でも、電化製品の普及でも同じです。産業革命が起きて失われた仕事もありますが、変わらず続いている仕事もあります。

あるいは核兵器の開発・拡散によって戦争の形が変わると言われましたが、確かに変わったところもありますが、通常の兵器や軍隊はなくなりませんし、クラスター爆弾や化学兵器など核兵器以外にも相手に激烈なダメージを与える新型兵器も生まれ続けています。

100年前のスペイン風邪で多くの人が亡くなっても世界は変わりませんし、ペストによって人口が激減してもヨーロッパやキリスト教は存在し続けました。

何かエポックメイキング的な出来事が起きることで変わるところがあるのは確かにそうです。それでも変わらないところもあります。社会はこう変わっていく、という悲観的、予言的な発言よりも、変わるところと変わらないところを見極める方が必要に思えます。


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