「表現の不自由展」から「鑑賞の不自由展」へ、それと「表現の自由」について
様々なことがあって結局8月3日に展示中止になった、あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展」ですが、本日10月8日に再開となったそうです。
この問題に関しては以前、
こちらのnoteで取り上げたことがありましたが、この度、展示再開されたことは個人的には納得しています。あくまで展示された上で批判されるべきだと思っています。ただ、今回の再開に関しては
「表現の不自由展・その後」10月8日(火)の入場方法に関するご案内
https://aichitriennale.jp/news/2019/004307.html
・入場は、入替制でのご案内となります。
・各回の鑑賞時間は40分間または60分間となります。
・各回の定員は30名です。(定員の数は変更になる場合があります)
このような制限が付けられています。展示作品や関係者に対して良からぬこと、はっきり言うとテロ行為を行うことがないように、鑑賞者に対しての制限が加えられたわけですが、そのために気軽に見に行けるものではなくなりました。これが展示作品の製作者の意図するものであるのか分かりませんが、渋々納得しているのかも知れません。もしこれで満足するくらいならそもそも始めからニッチな会場で展示すべきだったとは思いますが。
結局、鑑賞が不自由になったわけですが「表現の自由」という権利が人類普遍の権利なのか、それとも新しく生まれた権利なのかは結構議論のしどころだと思います。
人類普遍の権利ということであれば、いつの時代でもどこにおいても同じ解釈が成り立たねばなりません。状況によって異なる結論や解釈が成り立ってはならないということでもあります。
つい先日、ネオナチの政治家がホロコーストを否定する権利、則ちホロコーストに関する表現の自由を求めて欧州人権裁判所に訴えていましたが棄却されました
ホロコースト否定、表現の自由でない=欧州人権裁が判断
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100500451&g=int
この政治家はドイツの地方議会議員だった極右政党、ドイツ国家民主党のメンバー。2010年の議会演説で「いわゆるホロコーストは政治的・商業的な目的のために利用されている」と述べ、12年に有罪となった。
これについて人権裁は「犠牲者を見下し、確立された歴史的事実に反するホロコースト否定」の発言と指摘。「ユダヤ人と彼らが受けた迫害を中傷するために意図的に虚偽の発言を行った」として、「(欧州人権条約で保障された)言論の自由の保護を受けることはできない」と判断した。
ドイツではホロコースト否定は刑事上の罪に問われます。そのために有罪になっていましたが、欧州人権裁が改めて「表現の自由」には制限があることを認めた形になります。これはまさしくリベラルの勝利ではありますが、日本の「表現の不自由展」に対する税金支援打ち切りに対する非難とある意味矛盾します。
「表現の自由」はそれ自体に一切の権利があるわけではなく、表現内容によって認めるべき、認めるべきではない、という判断があるのだとしたら、その判断は同時代的に権力者に行われるしかありません。それは大半の民主主義国であれば司法・行政・立法の判断となりますし、さらにそれらを認めている国民の判断にもなります。結局「表現の自由」には時代性や地域性を考慮しない普遍的特性は存在しないことになります。
ナチスドイツの賞賛、及びユダヤ人への非難は「表現の自由」としては認めず、昭和天皇の写真を燃やすことは「表現の自由」であるとするーーとなると、その判断は認められる時代や地域があったりなかったりすることになります。果たして現代日本社会で認められるべきかどうか。「表現の自由」が人類普遍の権利ではないのであれば国民で議論するしかありません。
もちろん、昭和天皇を芸術作品に使用してはいけないというわけではありませんが、これが昭和天皇ではなくヒトラーの肖像であればここまで問題が大きくならなかったと思います。昭和天皇とヒトラーには責任の度合いが異なります。それはまさしく東京裁判とニュルンベルク裁判の違いでありますが、保守・右寄りの思想の人は建前上は法的根拠から、本音で言えば戦争そのものを断罪したことから東京裁判を否定します。しかしその曖昧な法的根拠のはずの東京裁判が昭和天皇を戦争責任から守ったということは理解しておくべきでしょう。
「表現の自由」には制限があるということはリベラルも保守も右も左も理解しているはずです。そしてその制限による思想的限界は議論によって克服もしくは昇華されるべきものであり、対立を招いては結局芸術にも自由にもマイナスでしかありません。