【風(おと)と官能 】第9回 〜音とマインドフルネス〜「ASMR」「丁寧な暮らし」「ボレロ」辺りをウロウロしてみた。
「音」おと——
道を歩けば、世界のあらゆる音が耳にはいってくるわけで。
それってまさに一期一会の、世界で1回しかない「音楽」なわけで、とか。
でも、今から私が書くところの音は、そんな高尚な音ではなくて——
音に触れる、音に触れられる
けっこう前だが、テレビで「オーラの泉」というスピリチュアル系の番組があった。毎回芸能人や有名人をスタジオに呼び、霊能者の江原啓之さんと美輪明宏様がその人の悩みにスピリチュアルな視点でアドバイスしたり、前世を当てたり(確かめようがないが)する。
たしか菅野美穂さんの回だったと思う。
江原さんが、「あなた、近くにいる人の気配を心地よいと感じることあるでしょう?」と尋ねた。
うんうんと頷く菅野さん。すると、
「それはあなたの「前世の記憶」がそうさせてるのね」江原さんが、さも当たり前かのように言う。
「前世であなたは目が見えなかった。だから人の気配を感じると安心するんですよ」
え、そうなの?
これ、めっちゃわかりすぎるんですけど・・・
私は驚いた。人の気配とか、わずかに漏れ聞こえる生活音とか、それを耳だけで聞いていると、ひどく安心することがあったからだ。しかも江原さんの妙にしっくりくる理由に「じゃあ私も前世で目が見えなかったのか」と、本気でそう思ったものだが…
子供の頃から、静かに傍らにいる人が出す動作の音を耳だけで感じるのが好きだった。
土曜日の午後。
コタツでまどろんでいて、ふと目が醒めた時。
傍らにいる祖父の、新聞を熟読している音がする。
ぺりぺりぺり・・・
硬質な新聞紙が、ゆっくりと折れ曲がる音。
寝ている私を起こさないように、そっとめくられるページの音は、私の耳の外側の、ほわほわとした産毛を、もっとその奥の脳みそを直接手のひらで撫でられているようで、独特のゾワゾワ感があった。
祖母の、さやえんどうの筋を剥く音がする。
ぷつ。シュゥゥーー・・・
私はすでに目を覚ましているけれど、なおも寝たふりを続ける。脳に鳥肌が立つこの感覚は私だけなのだろうか。そして何だろう、この絶大なる安心感。
そうしているうちに、なぜか再び眠りの世界に引き戻されていく。
この快感に名前があると知ったのは、ここ何年かのことだ。
ASMR——Autonomous Sensory Meridian Response「自律的感覚絶頂反応」という。しかも、これを好きだと思う人は意外といるらしいからすごい。YouTubeで「ASMR」と検索すると、あらゆる極小サイズの音がマイクで拡大された動画が「好きじゃない人には、何がいいのかさっぱりわからない」「というか、咀嚼音とか普通に気味が悪いんだけど」そんな動画がゴロゴロしている。
世界は広い。私だけしか得られない特殊感覚なんてひとつもないとわかっている。しかしここまで認知されいて、明瞭な名前もあって、しかもけっこうちゃんと研究されていたことに驚く。
で、やっぱり前世が原因じゃないよな。と思う。
先日『ボレロ 永遠の旋律』という映画を観にいった。
20世紀初頭のフランス。作曲家のラヴェルは、著名な女性ダンサーのイダから自身が踊るバレエ作品の音楽を作曲するよう依頼される。しかし「絶賛スランプ中」だったラヴェル、自身の目指す音楽がどうやっても降りてこない。苦悩するラヴェル。彼は日常のあらゆる「音」を採取するかのように「これだ」と思う音を求めて、長い時をひとり彷徨う。
劇中のラヴェルは独身で硬派な男だ。その彼が、娼館に出向く場面がある。場末の娼館の一室。まあこの後は、どうせお決まりの展開になるのだろう。そう思いきや、ラヴェルはポケットからシルクのロング手袋を取り出す。それを娼婦に渡し、目の前でゆっくりはめるよう頼むのだ。
さわ、さわさ、わ、さわさ・・・
娼婦の腕を、今にも止まりそうなスピードで手袋が引き上げられていく。静寂の部屋でしか聞き取れない、かすかな絹ずれの音が、映画館に響く。
そうか、あんた(ラヴェル)も好きなのね。
しかしいったい何の目的で、ひとはASMRを聞くのだろう。
これが認知され出した頃にさかんに言われていたのは、性的快楽を得るためだというものだ。安直かつ直球だ。だからこれが好きな人は、ただの「音の変態」だし、もしハマったら溺れる、中毒になる――そう危惧された。ASMRは「ポルノ」だから規制の対象にした方がいい、そんな声も上がっていた。あれはその後どうなったのだろうか・・・さしてどうもならなかったような気がする。というのも、実際のところ、ASMRを性的な目的で使う人はわずか5パーセントであり、ほとんどは睡眠導入の助けやリラックス、ストレスの軽減が目的だとわかったらしい。
こうなると、音というものは単に「聴覚」に作用するだけではないのでは。
たしかに音は空気振動だ。その空気を震わせるということは、物理的に(ほんの微弱な力であっても)どこかしら「触覚的」要素がある、と言ってもよさそうだ。現に、笑い声を聞かせながら作った水の結晶と、怒号を聞かせながら作った水の結晶では、形がまったく違ったものになったという実験もあるくらい。結果は当然、笑い声を聞かせた方が美しく均一な結晶になる。
触れる、触れられる、というのは絶大な癒しだ。
私たちは、身体の悪いところを無意識に撫でさするようにできているし、リラックスしたくてマッサージに行く。赤ちゃんは子守唄を聞きながら背中やお腹をぽんぽんされると、夢の世界へ行く。「手当て」とは、よく言ったものだ。
いま私は、外界の音が拾えているか。
とはいえ私は、YouTubeでASMRはほとんど見ない(聞かない)のだ。
本来は小さかった音をわざわざイヤホンで拡大させるのは、あまり好きじゃない。小さい音を小さいまま拾いたい。私の方から、音を拾いに歩み寄りたいのだ。
そのためには何が必要か。
「騒がしく泡立っていない頭の中」だ。
かわりに私がYouTubeで見るのは「丁寧な暮らし」を扱った動画だ。ピンクと白で統一された部屋に住む、ごく普通のOLの毎日だ。
コポコポコポ・・・
朝5時。お気に入りの耐熱グラスに熱い白湯を注ぎ入れる。
カラコロ、カラコロ・・・
朝7時。マグカップのかぼちゃスープを、木製の匙で撹拌する。
シュオオオー・・・カララン。
夕方6時。仕事から帰宅。
花瓶に水道水を溜め、買ってきた季節のブーケを活ける。
いやこんな凝った生活って「普通」か?!絶対ちがう……そう思っても、ついつい観てしまう、OLの平日ルーティン。そこでは日常の生活音はとても大事にされている。
つまりASMRも丁寧なくらしも、進化系の「マインドフルネス」みたいなものなんだろうと思う。
最近私は、何と行き着くところまで行ったのか「ASMRが健全にできるか」ということが、今の自分の「ヤバイ度」を測るバロメーターになっている。日常のわずかな生活音がきちんと聞こえ、しかも心地よく感じられたら「いい調子」。逆に「音が入ってこない」「耳を傾ける余裕がない」時は、けっこう「ヤバめ」だ。
そんな時は脳内がワーッとなって、外界の音が入ってこない。それだけじゃなく、生活音や心の声も大きくなっているはず。話し声も尖っているかもしれない。毎日がパンパンになっているかも・・・これに気づけること自体、意外と難しいのだけど、折にふれては「思い出す」ようにしている。いま私は、外界の音が拾えているか。
マメにスケールするようになった。生活が忙しすぎる、タスクが多すぎる、頭が考えごとではち切れそうになっている――そんな時は、耳がとても疎くなるのだ。
急ぎ足で駅に向かって歩く自分の靴が、道の小さな砂利を踏みしめる音が聞こえるか。
ジャリ、ジャリ、ジャリ、ジャリ・・・
風が吹いて、木の葉がいっせいに揺れる。
さぁぁぁ・・・・
うん、聞こえる。
今日は調子がいいみたい。
音は、禅だよ。(終)
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