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2024年9月29日

映画館の窓口で映画のチケットを買う。アーチ型にくりぬかれたガラス越しに、ラミネートされた客席図を眺める。週末だからか後方の席は全て埋まっていた。「前のほうで」とC列の8番を指す。そういえば一昨日行った映画館でもCの8に座っていた。

映画館を独り占めしているみたいで、最近はスクリーン前方に座ることが多い。見上げるしかない体勢で顔を上げる。スクリーンがそびえ立っているよう。全体を俯瞰するのではなく、降り注ぐ巨大な像を浴びるというのは映画館という空間でしか味わえない。

上映時間まであと45分ある。上映までの時間を潰すためだけに行く近場の老舗喫茶店へ向かう。深い木彫のテーブルと椅子が並べられた喫茶店では、コーヒーを頼むとその人に合ったカップアンドソーサーに淹れてくれる。カウンターの中でてきぱきと作業するシックな店員たち、忙しなく賑やかに会話が飛び交うテーブル席、テーブル席を背にして静かな個の時間が並ぶカウンター席。

この前もカウンター席に座り、映画が始まるまで本を読んだ。今回もそのときと同じようにさっと案内され、悩んだ末に同じコーヒーを頼み、違う本を開く。今日はどんなカップが来るのかしら。前回はベイビーピンクの丸くてぽてっとしたカップだった。ピンク色の持ち物なんてひとつも持っていないし、所謂「女性らしいかわいさ」を醸す要素(たとえば、りぼんとかレースとか)に一切興味がないのだが、差し出されたラブリーさに思わずきゅんとした。「あ、私にもこんな乙女な感性があったのね」と見知らぬ自分に出会う瞬間はいつも楽しい。

夢中で本を読んでいたらいつのまにかコーヒーが置かれている。可憐なハ角形のカップアンドソーサー。なんと。今日は8が続いている。面の対角線上に群青の花と蝶がちょこんと描かれている。あくまでも主役はカップの白地と言わんばかりの謙虚な絵柄が上品なこと。かの有名なヘレンドのオクタゴナルカップである。うれしい偶然を味わうように、八角形のカップにたっぷり注がれたコーヒーを少しずつ飲む。映画館には予告編の途中で入りたかったので、散歩がてらちょっとだけ遠回りして映画館へ戻った。

映画はなかなかだった。山水映画なるジャンルを確立させたがっている中国の監督の3部作中の第2作目。果てしない山と川の美しさを捉えた映像の合間に、人間の滑稽さやもろさを凝縮したはちゃめちゃな物語がこれでもかと挿入される。そして最後には世俗の醜さを一蹴するように再び自然へと回帰する。爽快なエンターテイメント映画だった。下手をしたらチープなあるある話になりかねないストーリーを見る者の再考を促す作品として成立させているのは、役者の怪演と圧倒的なスケールの映像美である。今日見せられたものは、人の手ではどうにもできない、豊沃な地に生きる人々ならではの潜在的な世界観なのではないかと想像する。想像したところで到底たどり着けない、誰かの人生がどこかで生きられている。そう思うと自分がますますちっぽけな存在に思えて、ちっぽけでよかった、と安心する。

終了時刻がどんなに遅くても、映画を見た後はまっすぐに家には帰らない。見たものをじっくり反芻するように2駅分ほど歩いてから電車に乗る。今日は渋谷、原宿、表参道。今時なのか昔風なのかわからない、でも「調子がいい」のであろうとびっきりの一張羅に身を包んだボーイズが闊歩する通りを抜けると、中国語や韓国語や英語が行き交うハイブランド・ストリートに出る。聞こえてくる道端の言語に耳をすませながらずんずん歩く。

渋谷、原宿、表参道。私とは全く縁遠い地だったはずが、これらに数々の思い出や誰かとの痕跡があることに気づく。東京にすっかり長居している。いつまでも無機質な都会なのは変わらないのに、通りのあちこちに、過ごした時間と出会った人が見える。不思議。東京というまちがこんなふうに私に迫ってくるようになったのはいつからなのだろう。迫ってきたというか、私の思い出があまりにもまちのあちこちに引っかかっている。思い出す何かがあるというのはいいことなのか悪いことなのか。とりあえず、渋谷はいろいろ考えさせられるまちになってしまった。

今日1日歩きながら、本を読みながら、お茶をしながら、映画を見ながら、思いついた素晴らしいアイデアや雑感があったのに、家に着くときれいさっぱり思い出せなくなっている。そのことが余りにも勿体なくて、0時が過ぎたというのになんとか今日を書き残さねばと必死にタイピングする。指は空回る。

お昼に食べたフレンチトーストのチーズサンド。背徳感を抱く味だった。

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