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ドラクエ経済はギャンブル式?(後編) ~メタバース経済考

不評な記事の最終回です(自虐)。いいもん!

ギャンブルのように小さな金額を繰り返し費やしていくことと、ゲーム内のアイテムの価値が短期的に移り変わり安定しないことから、ドラクエ10(ドラゴンクエストX)の経済では先行きを見通せず、「その日暮らし」に近い生活を求められる「圧」を感じます。

でも、これが意外なところでMMTやベーシックインカムに重なることに気付いたのです。しっかり、まとめます。

一億総中流社会、昭和の名残り?

ドラクエ10では、簡単な「日課」で小さくない金額が与えられます。そのため、初心者やいわゆるライトユーザーが困窮することはまったくありません。ただ、いたるところで小刻みに支払いを求められるため、ある程度大きな金額を(急いで)貯めようとするとなかなか「タイヘン」ということになります。

この背景には、「ネトゲ廃人」問題があると思われます。「Time To Win」(時間をかけられる奴が勝つ)と言われてきたMMORPG全般では、昔から現実の学業や仕事をおろそかにしてハマリすぎることが問題視されてきました。その簡単な問題解決策として、毎日ちょこちょこプレイするだけの人はカジュアルに楽しめるようにサポートが得られ、運営側が想定する1日のプレイ時間を超えるとハードになるよう仕向けられるのが一般的です。

1日1回、課題をこなすと経験値と同額のゴールド(3万程度)を貰える。

特にリアルマネーの課金で競う「Pay To Win」(金をかけたやつが勝つ)にしていないMMORPG(ドラクエ10も、FF11も)では、必ず配慮されるポイントなのですが、ドラクエ10はそのラインがちょっと低めだと感じられます。

ドラクエシリーズの生みの親でドラクエ10のゼネラルディレクター(実際はあまり関わっていないらしい)の堀井雄二さんが以前から「ネットゲームはリアルと反比例する(リアルでステータスの低い人=廃人が高い地位につく)」ことを問題視する趣旨の発言をしており、一般人を優遇し、廃人を優遇しないことはドラクエ10の大方針なのだと思われます。

MMORPGは経済も楽しみのひとつではありますが、あくまでゲームとしては「様々な体験」を提供することが目的で、ドラクエ10はそういう意味では充分に優れた作品です。ただ、こうして経済を中心に見てみると、少し息苦しさが生じていることに気付かされます。

実際には、学校や仕事を日々がんばっている人、特に忙しい人ほど「休みの日にがんばる!」というプレイスタイルをとるわけですが、ドラクエ10とは相性がよくありません。「日課」で得られるお金の比重が高いため、週末に集中してプレイしても平日のぶんを取り戻すには至らず、結局不利になるのです。「日課」の影響が強いドラクエ10は、その比重が高めです。

毎日プレイできる「可処分時間」が多い人も、ドラクエ10の世界で貯金をしようとすると急にハードルが上がります。これをあわせて考えると、ドラクエ10の経済は「可処分時間」が"普通"の人が、平坦にプレイすることが最適なものだと言えます。時間がないのに無理をしたり、逆にこの世界で野心的に振舞おうとするとストレスがかかる仕組みになっていると言えるでしょう。

これは現実世界でいえば、「一億総中流」を国民が自認できた昭和の時代にあわせたようなものです。でも現代日本では、稼ぎはあってもなくても残業が多く、平日の可処分時間が少ない人が増えていますから、そこには小さくない意識のズレを感じます。

ただ、それはあくまで大人をイメージした場合の話でしかなく、子どもは違います。

子どもの視点で見てみると――毎日お小遣いを与えられ、でも「誘惑」の多い社会に生きる。そして、子どもは成長過程にあるため本能的に好奇心が強く、そして"衝動的"で、先見性は(あまり)ない。――想定されるユーザー層を「子どもたち」と考えれば、ドラクエ10(の経済)は合点がいくことばかりです。

幼年期の終わりは訪れない?

ところでドラクエ10は海外展開をしていません(中国のサービスはすでに終了)。そのため、他のMMORPGに比べて現実の日本社会にある価値観が強く反映される傾向にあります。今回のシリーズ記事でテーマとした「ギャンブル式のお金の取り方」はドラクエ10の経済と日本社会とで共通の傾向です。

貨幣回収の鬼、リーネさん。物語中でも大富豪としての側面が描かれる。

さらに少し話が反れますが、ドラクエ10は最近になって『オフライン版』が発売されました。最初に発売されたものはオンライン版のVersion1の物語までプレイでき、続いて発売された追加DLC(ダウンロードコンテンツ)はVersion2の物語をプレイできるようになっています。

ここで追加DLC全般をこじつけでギャンブル式などと呼ぶつもりはないのですが、実はドラクエ10の物語はVersion1とか2とかでキリよく終わりません。ボリュームは大きく、遊びがいはあるんですけどね。とはいえVersion1で示された謎がVersion2、Version3、と引っ張られるので先日発売された「Version2」を"追加"と呼ぶのはいささかモラルに反していると考えられます。

なお、オフラインのVersion1は「8580円」、Version2は「4400円」です。Version3より先の物語がどの程度連続性があるのか、それとも途切れているのかわかりませんが、この先も継続して「追加DLC」として発売されたら、いったい総額いくらになるのでしょう?

ぼく自身はまだオンライン版でのんびりVersion3を進めている途中ですから"先見性"は働きませんし(現在Version6まである)、ネットゲームとして始まったドラクエ10に抵抗があってこの度オフライン版を楽しむことにしたドラクエファンのみなさんも同じです。

経済の仕組みについては、ドラクエ10は「子どもを想定している」と考えればピタっと来ます。ただ、実際には大人も含めて子ども的に扱う商法が身に着いてしまっただけなのではないかとも考えられます。

ドラクエが該当するかどうかはさておき、「取れる人から(小刻みにして)より取る」という商法は日本中(に限らず世界も)に広がっています。

1990年代後半にぼくら団塊ジュニア世代が大人になっていったとき、今後減る一方の子どもたちを対象にした商売は厳しくなると言われていました。ところが実際には、従来子ども向けだった商品やサービスを大人も相手にするかたちにしたり、男の子向け・女の子向けを明確にせず中性的にすることで対象を広げたり、ということが行なわれて生き延びてきました。

大人といっても、まだ「若者」ならあまり先のことは考えないのも普通のことですし、新社会人が子ども時代のお小遣いや学生時代のバイト代より劇的に多いお給料を無駄遣いしてしまうことは昔からよくあることです。ただ、社会全体でちまちま出させるノウハウが共有され、広まっているなか、その影響、浪費させられる度合いは昔よりずっと強くなっているのではないでしょうか。

政治経済の話題では、貯蓄ゼロ世帯が昔に比べてどんどん増えているというデータが持ち出されますが、必ずしも政治家が悪いとか、経済発展が足りないことばかりが原因とは限りません。

とはいえ、ともかく子どものように誘惑される社会は現実にあって、原因はどうあれ貯蓄がなく将来に不安を覚える人が増えている現在、まさにそういった層を視野に入れる左派(体制よりも庶民寄りという意味で)から頻繁にあがる声がベーシックインカムや、その財源としてのMMT(現代貨幣理論)の実現です。

でも、MMTもベーシックインカムも、社会背景自体を変えるものではありません。

もし日本でベーシックインカムが実施され、毎日5000円程度、月あたりで15万円程度のお小遣いが貰えるようになったとしましょう。とはいえインフレさせるわけにはいかないので貨幣を間接税(消費税等)としていたるところで回収することになり、しかし社会に誘惑は多い、という状況になります。あるいは公共サービスは有料になり、公園に入るのに500円、水を5秒飲むのに100円、みたいな感じでしょうか。この例はドラクエ10の経済によく似ているかもしれません。

MMTを部分的に信じる方は貨幣を(あまり)回収しなくてもいい、貨幣を生み出せる国家は破綻しない、と考えるかもしれませんが、ハイパーインフレに至らずとも物価はそれなりの勢いで上昇し、同じ勢いで貯蓄の価値は下落します。貯蓄に意味がなくなると、新たな技術や発明を受け止める余力はなくなり、そもそも人より抜きんでて専門性を発揮したり、活躍する意味が(少なくとも経済的には)なくなります。

もちろんMMTは、物価がある程度上昇し始めたら貨幣を回収することを想定しています。MMTはさほど特別な思想ではなく、毎年緊縮財政を前提とする現在の日本のようではなく、誤解を承知でざっくり言えば財政を複数年まとめて考えて、絞ったり緩めたりするだけのことです。

ただし、上がった物価をどう下げるかは別問題です。下げないなら、度々貯蓄の価値が下落することを繰り返し、やはり貯蓄の意味はなくなります。政府が強引に価格を決める統制経済なら手法的には可能ですが、統制経済は今よりシンプルな時代にすら失敗しかしておらず、もはや前向きに検討されてもいないので誰も実現できるとは考えられません。

結果、多くの人が「その日暮らし」を行なうようになり、それを拒否する生き方には大きなストレスがかかるはずです。

ただ「その日暮らし」が悪いわけではありません。その言葉のイメージの悪さは、現在のぼくらの価値観に基づく主観でしかないからです。遠い将来、どこかで人類にはもう技術を向上できない場面は来るはずで、その時がくれば皆が「その日暮らし」するのは当然のことになるでしょう。

「その時」を正しく見極められるならいいのです。

でも、もし見誤ったら。「日本やアメリカなど西側諸国は早くあきらめてしまい、中国はあきらめなかった」ということが起きれば、どうなるでしょう? 中国だけが劇的に進歩して西側世界は置いていかれる、ということが起こり得ます。その時、ぼくらの立場がどうなるかというと……。

経済の発展も技術の発展も、どこかに「終わり」があり、安定路線に切り替えて良いときが来るはずです。でも、その「終わり」を正確に見極められない限り、この終わりが見えないレースから途中で降りるわけにはいかないのです。

それはまさに、ギャンブルと同じではないでしょうか。

(おしまい)

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