『春』
穏やかな黄金色の空気がたっぷりと部屋に満ちている。傍らには先程まで読んでいた本が突っ伏されている。
「あ、よだれ」
桜色のカバーの一部が桃色に変わっている。袖でよだれを拭き取ると二つのピンクが曖昧に滲んだ。
時計の針は二時四十分を指している。お昼ご飯を食べて本を読んでいたらいつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
なんで昼寝をするとよだれが垂れるんだろうなあ。しっかり寝ようと思って寝るときは垂れないのに、なんて寝起きの頭でぼんやりと思う。
喉が渇いていたので珈琲を飲もうとしたらいつものドリップバッグが切れていた。なんと。これでは午後のスタートが切れない。
「面倒な癖が移っちゃったなあ」
と、口角だけで笑う。半年前まで恋人だった冬子は寝起きに必ず珈琲を飲む癖があった。
仕方なくコートを羽織り、大きな公園を挟んだ向かいにある喫茶店に行くことにした。どうせなら喫茶店で仕事をしよう。大きな窓に面したカウンター席があり、眺めが良くてお気に入りなのだ。今の時期なら公園の桜が見えるだろう。
この喫茶店はレジで注文してから席に座る流れになっているので、さっそくレジで珈琲を頼もうとしたらレジ下のショーケースにある残り一つのプリンが目に入った。
「今日のラッキーアイテムはプリンです」
と、朝の占いのお姉さんが言っていたことをふと思い出した。
「オリジナルブレンドとプリンをお願いします」
と注文した瞬間に後ろから、
「あっ」
と声が聞こえた。振り返ってみると同い年くらいの見知らぬ女性がとても残念そうな、悔しそうな顔をしている。明らかに「最後のプリンを取られて悲しい」という顔だ。
驚いたがなんだか可愛らしかったので、
「プリン、譲りましょうか」
と、聞いたら、ぱあっと表情が解け、
「いいんですか」
と、瞳をキラキラさせ子どものような笑顔で純粋に喜ぶので、こちらまで嬉しくなってしまった。
店内は混んでいたが窓側のカウンターが二席空いていたので、先程の女性と横並びに座った。
特に会話をするでもなくパソコンで作業をしていたが、なんとなく女性が読んでいる本が気になり視線を向けると、
「あっ」
今度はこちらが声を出してしまった。見覚えのある桜色のカバー。これは、きっと。
「お名前を聞いてもいいですか?」
女性は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になり答えた。
「春子といいます」
ハッとした。瞬間、窓の外で桜吹雪が空を舞った。本の名前を聞いたつもりが、思わず知ってしまった彼女の名前。冬の次は春が来る。新たな物語の始まりの予感に、暖かな春風が心をそよいだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?