いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(3)
松本零士が小倉での高校生時代に“蜜蜂の冒険” により第1回漫画新人王に入選し,新人王を受賞する前年の1953年(昭和28年),同じく小倉在住の作家が “或る「小倉日記伝」” により第28回芥川龍之介賞を受賞する。
1909年(明治42年)生まれの松本清張(本名 清張「きよはる」)は,芥川賞受賞の直後に上京し,作家としての本格的な執筆活動に入る。“点と線” をはじめ“ゼロの焦点” “砂の器”など,鉄道により物語の舞台が展開していく作品は,停車する星で起こる事件により物語をつむいでいく,零士の“銀河鉄道999”とかさなる。
鉄道作品の名手たる清張は,古代史をめぐる話題作でも議論を引き起こす。
1973年(昭和48年)6月から翌年10月まで,朝日新聞朝刊の連載小説 “火の路”(当時は“火の回路”として発表)は,飛鳥の古代石造遺物・遺跡をペルシャのゾロアスター教の拝火壇・拝火神殿とその付属物と解する “清張説” を主題とした作品である。
主人公の大学助手 高須通子が発表する2つの論文と,これに対する在野の古代史研究家 海津信六の評論が,物語の主軸となり,ミステリーが展開していく。
高須の1本目の論文 “飛鳥の石造遺物試論” により,研究対象が設定される。奈良県高市郡明日香村に遺存する石造物 “酒船石” “亀石”,橿原市岩船山の “益田岩船”,人体像の彫刻として明日香村下平田の “猿石”,橘寺の “二面石”,石神の“道祖神石” “須弥山像石”である。この論文で,斉明天皇に関する日本書紀の記述についての特異性を提起する。
これらの石造物の製作の目的と用途は何か。
この謎を通子は,2本目の論文で自説を主張していく。
結論は,飛鳥期に渡来していたペルシャ人によるゾロアスター教(拝火教)の宗教施設とその関連物と解する。
謎を解くカギとなるのが斉明天皇(594~661年)である。
論文のタイトルは “飛鳥文化のイラン的要素 ― とくに斉明紀を中心とする古代史考察と石造遺物について”
通子は,書紀斉明紀の異常な記述を,斉明天皇のもつ “異宗教的なもの” と捉え,渡来したペルシャ人により伝来したゾロアスター教への信仰によるものと論じる。
益田岩船は拝火壇であり,人物像はペルシャ人を象ったもの。
酒船石については,円形の凹所は石臼で,配合する薬草を搗いたり練ったりする場所であり,溝条は,特殊な液体(酥そ)を薬の製造過程に混入させるためのものと解く。
さらに論をすすめて,製造される薬物には,ハッシーシュ系の麻薬(胡本草)があり,ゾロアスター教を信仰した斉明天皇は,胡本草の愛用者であった。
斉明紀の奇怪で神秘的な記述は,このことに関連しているとする。
この論文を発表した直後,通子は所属する大学の研究室を追放され,“四国の某県庁所在地にある新設の私立女子大”の講師として赴任する。
海津の身辺にも異変がおこる。海津の実の娘と思わせる女子大生が,大阪別府航路のフェリーが宇和島市沖にさしかかったときに行方不明となり,北九州市門司区松ケ江海岸の沖に遺体となって漂着する。投身したものとみられる。
この直後に海津自身も自裁し,通子がその現場を訪れるところで,この小説は終わる。
この新聞記事をみた通子は,伊予長浜駅からタクシーに乗り,狭く急峻な山道を標高400mほどの壺神集落へと上がる。
“細長い島の向こうに小さな円錐形の島がならんで見えだした。細長い島が青島で長浜町の所属,沖の二つの島は小水無瀬島と大水無瀬島,どちらも無人島で山口県の大島郡になっていると運転手は説明した”
“「別府航路の連絡船は,こっちの青島と向うの小水無瀬島との中間を通ります」中年の運転手は指をあげて通子の問いに答えた”
ゾロスター教は,光明を善,暗黒を悪とする善悪二元論を唱え,光の神アフラ・マズダを最高神とする。火と土を神への供物とし,穢れを避けるため火葬も土葬も禁じられ,遺体は鴉による鳥葬に付される。
壺神山には,大国主神と少彦名命(医薬の神様)が通りかかった時,山頂からの眺望に気を取られ,持っていた薬壺を山中に置き忘れたとの言い伝えがあり,壺神神社には “薬壺” が祭られている。
壺神神社から壺神集落,大平集落,新谷地区へと道が分かれる峠を “石神峠” と称する。
南東に向いて肱川と四国内陸部を望む大平集落と,北西に伊予灘に面した壺神集落(現在の伊予市)。飛鳥の二面石像のように,壺神山の背中あわせに反対方向に臨む2つの集落で,零士は宇宙と未来の姿を想像し,清張は古代と西域に思いをはせる。
壺神山と小倉をつなぐ“二人の松本の世界”である。
壺神山の山腹で,“火の路”の通子は旅をおえ,零士は少年から大人へと続く新しい旅を始める。
宇和島から始まった大和田建樹の旅も,そろそろ終着駅が近づいてきた。
東京に出て,1000を超える唱歌の作詞をこなした大和田は,地元愛媛の鉄道のことも忘れてはいなかった。
1908年(明治41年)に創業20周年記念として制作された “伊予鉄道唱歌” の作詞を担当する。この唱歌は,いまなお株式会社伊予鉄グループの社歌として,歌い継がれている。
発車メロディに関しては,2015年7月からターミナル 松山市駅などで,新たに創作した “リズム” というメロディがホームに流れている。
“リズム良く街に出かけよう”とのメッセージを乗せたのは,作曲者 清水一郎 氏。伊予鉄グループ 代表取締役社長である。
ジャズフュージョンバンド “カシオペア” のキーボード奏者としてデビューし,現在では発車メロディ制作の第一人者でもある 向谷 実 氏は,発車メロディの役割と作成のポイントについて,それぞれ3点を指摘する。
最後に,大和田の故郷 宇和島駅。“宇和島鉄道唱歌”と“発車メロディ”を紹介して,この旅をおえたい。
1914年(大正3年)宇和島鉄道株式会社により開業した宇和島駅。大和田は,開業の4年前に53歳で世を去るものの,門弟の一人により “宇和島鉄道唱歌” は作詞される。
1876年(明治9年)宇和島に生まれた小林儀衛(葭江)は,上京して大和田に師事した後,帰郷して“南予時事新報”を創刊し,経営と編集を担う。
あわせて,観光案内誌 “南予案内” を発行し,団体旅行を実施。
“輪走唱歌”を作詞して,自らも宇和島から琴平までおよそ240㎞のサイクリングツアーを走破するなど,現代に通じる地方創生事業家でもある。
小林の作詞により三間川,奈良川など主に沿線の川を詠み込み,七五調で進行する“宇和島鉄道唱歌”は,第36番まで続く。
宇和島鉄道は,1923年(大正12年)に吉野(現在の吉野生)駅の開業により,全線が開通する。
国有化を経て,1953年(昭和28年)予土国境を越えて,江川崎駅まで延伸。
鉄道敷設の当初から,四国循環鉄道実現を目的としていた宇和島及び沿線住民の願いは,宇和島駅開業から60年後の1974年(昭和49年)土讃線 若井駅とつながることにより実現される。
2023年(令和5年)11月12日,吉野生駅のある北宇和郡松野町にて “宇和島鉄道全線開通100周年” 記念事業が開催され,式典で “宇和島鉄道唱歌” の合唱が披露された。(宇和島鉄道全線開通100周年記念事業実行委員会)
四国循環鉄道の分岐点 宇和島駅。一日のうち2度,“発車メロディ” が奏でられる。
大和田建樹の生家前にたたずむ鶴島城(宇和島城)から届くミュージックサイレンからのメロディに乗り,予土国境へと向かって,列車は宇和島駅をはなれていく。(おわり)
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