見出し画像

「ごめん、幸男君。行かなきゃ」布団から抜け出して景子は言った。

「ごめん、幸男君。行かなきゃ」
 布団から抜け出して景子は言った。畳に落ちていた白いスリップを拾って身にまとうと、髪を後ろで束ねた。汗はすっかり引いている。景子は、ちゃぶ台の上にポーチを取り出し、ラジオに鏡を立てかけた。皮脂でテカった肌、汗で滲んだマスカラ、落ちた口紅。華奢な身体を蛍光灯の下に晒し、慣れた手つきで化粧を直し始めた。
 ドンチン、ドンチン、ドドン、ドドン。
 窓の外から、祭囃子のような音色が遠くに聞こえる。近頃、陽が落ちるとどこかから太鼓と尺八の音がかすかに届くのだ。祭りの練習だろうか。ポンポンポコポン、ポン、ポコポン。軽快なリズムと共に景子は、真っ赤な口紅を手に取り、蓋を開け、中身を繰り出した。細く小さな筒から繰り出された赤い物体は、卑猥な形をして景子の唇へ近づいていく。いつぞやの、薄曇りの朝に見た、鏡台で身支度を整える母の影を見るようだった。髪の毛は乱れ、みすぼらしい着物を着ているというのに、紅だけはさす。赤い唇は、陽に当たらない白い肌を一層白く際立たせた。
 景子が手鏡に向かって、口紅を塗ろうとしたその時だった。瞬間、幸尾はカッとなって叫んだ。女はギョッとした顔を向け、彼を見つめた。その視線を感じながら彼は声にならない声で、まるで嗚咽のような声で、叫び続けた。後ろ身を気にしながら、言葉にならない声で、ありったけの不可解な何かを押さえ込みながら。尾てい骨が痛い。ただ、寂しさに似た怒りのような、訳の分からない感情が溢れ出し、涙と声が止めどなく溢れた。口からは涎が垂れ流れ、血が上った顔は熟れた柿のように赤かった。寂しいわけがない、客観的には寂しいわけがないのだ、そこに人がいる、人間がすぐそばにいるというのに。なのに、寂しい。寂しい、寂しい。誰にも言えない不安、真実を明かせない臆病さ、普段は忘れて生活できているにもかかわらず「ソレ」は突然ふいに現れ、幸尾を否応なく奈落の底へ突き落とす。泣き叫ぶ赤ちゃんのような男を前に、女はどうしたらいいのかわからず、固まったまま身動きが取れなかった。そして、気が狂った男を見つめながら、恐怖と共に愛しさを感じた。守ってあげたい、と本能的に思った。が、彼はそれさえも拒否し続けた。人を愛せないのに、愛して欲しいと願うなんて、寂しいからと言って、人の温もりを求めるなんて。人を愛せないというのに。愛する事ができない、愛情が湧かない、感情がない、愛のようなものが湧き出たとしても、一瞬でどこかに消えてしまう。おかしいのかなあ、おかしいよ、本当に?なあ、幸ちゃん、そうだろう?男はまるで川に靴を流された子供のようだった。女はどうすれば良かったのだろうか。呆気にとられて見つめるだけで、男を抱きしめる事ができなかった。守ってあげたいと心から思った。が、抱きしめる事ができなかった。彼は、抱きしめて欲しかったかもしれない、そうだろう、でもそう懇願する事はできず、その願いが拒まれた時の悲しみを少しでも軽減するために、相手が受け入れられないような環境を自ら作り、保身した。そう、きっと相手は、抱きしめたかったけれど、そうできないれっきとした理由があったのだという希望の可能性を残すために。
 いつの間にか、祭囃子の音色は聞こえなくなり、深と静かな夜が訪れていた。幸尾は、泣き疲れて眠りたかった。が、「ちょっこし、用足し行ってくるわな」と言い残して、部屋を出た。部屋を出る時、景子の後頭部に軽く触れた。ポンポンポコポン。最後の太鼓が鳴り、月が顔を出し始めていた。小さな鍋に入ったアサリが、ピュっと勢い良く水を出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?