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「自分が絶対正しい」と言い張る創価系ブロガー

Twitterでとあるやり取りを見ていて違和感を覚えたので横槍入れたらレスバになってブロックされた。

なんとかロレックスというブロガーで、ブログの内容は非常に素晴らしかった。御書や指導について、個別に学術的な視点から誤りを指摘しており、非常に勉強になった。

ただ、Twitter上で活動家と見られるアカウントとのやり取りで「自分が絶対正しい」と連呼してる姿を見て(なんでそう言い切れるのだろう)と感じた。

その自信はどこから湧いてくるのだろう。
聞いてみたら「歴史学的に正しいから」と。
けども、仮にそこが正しくても活動家を全否定する根拠にはならないのでは?と問うと「論ずるに値しない」など言われブロック。

自分はブロックされたので、当該リプは見れないのだが、冷静にいくつか疑問が残る。

活動家としての対応について

まず、御書の解釈の誤りや指導の誤りを一活動家にぶつけて「宗旨替えしろ」と言われても、1個人としては「ご教授ありがとうございます。幹部に相談してみます」というのが精一杯ではないか?

まず大前提として、創価学会は広宣流布とひとりひとりの幸福を謳った宗教団体である。
活動は御書に則って進めていくが、御書は日蓮の消息(手紙)を集めたものだ。
手紙なので相手がある。相手があると人によって伝える内容が異なる。そのため、一見同じような状況でも真逆のことを日蓮が認めていることもよくある。

創価学会は御書全体を通した整合性について整理した上で、会員に指導したり本を出版していると、一般会員は思ってる(よね?)。

ここからは私見だが、冒頭にあげたブロガーのような指摘は把握した上で、学会として活動(広宣流布)を進めやすいようにある程度単純化した形で教義や解釈を示しているのではないだろうか。
もちろん御所通りにやれればいいのだが、御書の執筆は鎌倉時代であり令和ではない。そこを踏まえて創価学会教学部は整理をしているはず。

活動家はそれを受けて日々の生活や活動を行っているだけだと思う。
そこに「御書のここは本当はこうだ。だからお前ら間違ってる。誤りを認めないなら云々」と言われても、こちらは何も返しようがない。
なぜならば、御書が現在そういう解釈になっているのは今の青年活動家が決めたわけではないのだから。いくら個人で研鑽してたとしても、解釈等に疑問が生じたら幹部に相談、そこでもわからなかったらさらに上へ。場合によっては本部までいくことになる。

ここまで読まれた方なら気づかれているかもしれないが、学会は官僚型組織でもあるのだ。そうであれば、企業や役所と同じと考えても間違ってはないのではないか。

企業は利益追求(目的)のために経営理念(根拠)に則って経済活動を行う。
役所は公共の福祉(目的)のために法令規則(根拠)に則って行政活動を粛々と進める。
同じように宗教法人である創価学会は、広宣流布(目的)のために御書(根拠)に則って社会的活動を進める。

皆さんの仕事の中で「この法律(経営理念)は間違ってる!自分が絶対に正しい!だから俺の言う通りにしろ!」と言われたらどういう対応をするだろうか。
仮に法律が今の時代にマッチしてない場合でも、法律や規則等の改正が行われない限り、組織人として異なる対応はできないのでは無いか。

学会も同じなのだ。
「御書や指導のここが間違ってる!自分の方が絶対に正しい!だから誤りを認めろ!」と言われても、それは1個人に言ってもどうしようもない。言うなら学会の幹部か教学部に言ってください。その見解に従います。もちろん仰られたことは非常に勉強になりますので、有難く受け取らせていただきます。
活動家にはそういう対応しかできないのではないか。

働きながら日々の活動を営み学会活動をしていると、1人の手での研鑽には限界がある。
そこに細かいところを指摘されても、その指摘が正しいかどうかなんて判断がつかないのだ。

学術的に正しいからその人の言うことは正しい?

2点目は「学問的に正しいからその人の言ってることは全て正しい」という命題についてである。

いくら学問的に正しいからと言って、その人の言うことが全て絶対正しいと言えるのだろうか。

現実問題、いくら学問的に正しかろうが、その人が絶対正しいとは言えないと考えるのが普通だろう。
学問の分野については正しい。でも現実問題についてはトンチンカンなことを言う人なんていくらでもいる。

そして創価学会はひとりひとりの幸福を追求していく団体である。厳密には学問的に間違っていても、その人が幸福に人生を送れていればそれでOKではなかろうか。

これは医療の分野、特に精神科医料の分野を見ると顕著なことだろう。医者やカウンセラー、福祉の専門職の助言をいくら正しく実行しても良くならなかった患者が、ひとりの当事者との出会いで劇的に症状が改善するなんてことは、精神保健福祉の分野ではいくらでもある。

創価学会の活動家が根ざしているのはあくまでそうした現実世界、社会の中だ。もちろん、教義に忠実であることはとても大切なことである。ただ、日々の生活の中でいちいち「これは御書に則っているのだろうか」なんて考えることは不可能に近いのではないか。
もしそれをやろうとするならば、非常に窮屈ではないか。

日蓮が残した手紙はたくさんある。その中でも特に重要なものについての誤りへの指摘もあり、一見すると正しいことを指摘しているように見える。
でもそれが、指摘した人が言ったこと全てについて絶対正しいと言える根拠にはならないことは自明であろう。

その点について追求したら「話にならない。レベルが低すぎる」などと残してブロックされた。
学問の世界が上で現実の生活は下なのだろうか。

日蓮はそんなことは残してない。あなたこそ教義にないことを言って「自分と話が合う活動家がいない」と勝手に被害者ぶってるだけではないか。

私はそう思う。
もちろん違う考えの方もいると思う。
ただ、この点についてはずっと疑問に残っていたので1度文章に落とし込んでみた。