3.11のあの日、僕は朝から喪服を着ていた
こんにちは。旅するアートディレクター / デザイナーの市角です。
本日は花粉の飛散拡大につき #デザイナーの頭の中 をお休みしまして遅ればせながら3.11について書こうと思います。本当花粉辛い。
でもこのことについてはちゃんと書いておかないとなーと一日遅れですけど綴ります。
あの日。
どんな人間でもあの出来事で少なからず人生が変わったはず。
自分もそんな一人だったのです。
昨日のわたしのツイート。
その日は朝早くからの母の電話で目覚めました。
じーちゃんが亡くなったので、喪主をしてほしいと。
うちは母子家庭ですから喪主は私がやることに。
その日にあった仕事を少しだけ延期してもらいながら喪服に着替えて当時住んでいた世田谷区豪徳寺のマンションから津田沼に向かいます。
じいさまは原爆直後の広島で救護活動して、思い切り被爆し、戦友はだいたい10年ぐらいでみんな亡くなってるのに一人だけ生き残ってしまったようなタフな人で、今までも大病をしたはずなのに気がついたら退院してきて家でテレビ観てる。みたいな戦争世代によくいる元気なおじーちゃんでした。
そんな生命力の塊みたいなじーちゃんが朝おきたら眠るように亡くなってたと。
歳が歳でしたのでまあそんな日はいつか来るよな..と思っていたけど気持ちを整理できず、何より離れて暮らしていた時間が長かったから「もっといろんな事話しておきたかったなあ」なんてぼんやり後悔しながら喪服と履き慣
れない革靴でぎこちなく電車に乗り込みました。
(実はこのときの後悔がきっかけで、後日こんな旅をしてます)
途中の風景もあんまり覚えてません。
気がついたら乗換駅の船橋になったので降りてトボトボと京成線に乗り換えようとJRの改札駅にSUICAかざしたその瞬間に
「グラッ」
とすごいめまいに襲われました。
「あー最近仕事忙しくてあんまり眠れてなかったから疲れが溜まってるんだなあ。」
くらいに思っていたら、じつはそれはめまいではなくて地震だったんですね。
自分が体験したこと無いタイプの揺れ。
グラグラじゃなくて大きく一気に「グラッッ」
同時に周りから悲鳴が聞こえます。
「わあ、これはシャレにならない地震が来てる。今までとは違う何かが始まっちゃった」
と意外と冷静にその様子を観ていました。
すでに朝から何かがおかしかったので立て続けに起きたこの出来事にどこか他人事というか、ぼーっとしたまま状況を受けれてました。
その後はTweetしている通りですが、
喪服を着たまま帰宅難民になり、
喪服を着たままトボトボ10kmほど歩いて帰り
喪服を着たままTwitterでアップされている津波の映像をただただ呆然と眺めている。
これは一体何が起きてるんだろう?
自分の人生の日常が「実は嘘でした」とドッキリだったみたいな。
そんな感覚をその後の数ヶ月感じながら過ごしました。
で、これは一回東京で暮らしてるデザイナーの市角は一回死んだんだと思うことにしまして、ずっとやりたかった世界を回りながら働いてみたい、色んな仕事をやってみたい、後悔しないで最期の時を迎えたい。
そんなことを思うようになるんですよね。
そのあと日常に戻るっていうのが自分はどうしても出来なかったんです。
自分自身の感覚が変わってしまったんだと思います。何かが。
そんなわけでそれから、大学の教員になってみたり、料理本だしてみたり、デザイン思考の教育事業を始めてみたりなどなど、デザイナーの枠をはみ出して生きるようになりました。
あとその日から多分、みんなと一緒じゃなくていいや、浮いてもいいやって諦めることが出来たように思います。
自分の好きなことを追求していくとウケが悪いこと、マニアック過ぎて理解されないこといっぱい出てきますが、それで人からどう思われても別にいいかなと思うようになりました。相変わらず寂しいですけど。笑
でもそれが自分なんだから良いんだよって、あの日喪服を着てじいちゃんを送り出しながら迷っていた自分に言ってあげたいですね。
そんな感じでいつもは木曜日は #デザイナーの頭の中 書いてます!
デザインについてのお話、他にもありますので興味があったら。
あと手前味噌ですがこんなイベント、やってます。4月はジョージア料理たべながらノマドニア代表のルイス前田さんにお話聞いちゃう回でっす。