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祖母の死と「草枕」

祖母が先日、6月9日に息を引き取った。102歳だった。

細かく話すと長くなるので割愛するが、私の家は共働きだったこともあり、私は父と母双方の祖父母に預けられることが多く、特にこの母方の祖母にはいつも面倒をみてもらい、育ててもらった恩を強く感じている。

お茶を飲みながら祖母とは色々な話をした。小説にしたら何冊でも書けるような激動の人生を送った祖母の話はとても興味を惹いた。

これも長くなるので手短かにしようと思うが、祖母は大正から昭和にかけて東京で生まれ育ち、文学や活動写真、映画に囲まれて育った。今のみずほ銀行、第一か勧業かは忘れてしまったが銀行の行員を経て、太平洋戦争の頃は病院勤務だったそうだ。決して恵まれたことばかりでもなく、家庭の事情などもあり、他の兄弟は当時には珍しく大学に行ったりもしたのだが、祖母は女学校にも行けなかった。それでも銀行勤めや病院勤務でキャリアを築いたのだから優秀だったのだろう。病院勤務のおかげで戦時中もなんとか困ることもなかったそうだ。

生粋の江戸っ子の気質なのだろう。祖母は思ったことを穏やかではあるがストレートに話す人だった。好き嫌い、白黒もはっきりとしていた。さっぱりしているし、笑顔で淡々と手短に話すので一見わからないが、本音を率直に語る分、実は強い主張を持った人だったと思う。そして祖母の素晴らしい点は相手が誰でも常に変わらないことだった。どんな人にもあらゆる意味で平等だったと思う。

私が小さい頃は着物姿でいることも多く、粋な人だった。祖父は浅草で指輪職人だったし、いわゆる古き良き下町の文化の中にいた人だった。それは私にも色濃い影響を残していると思う。

祖母の人生について書いても、祖母との思い出を語っても、延々と続くだけで終わりが見えないので、祖母が好きだった小説について語ろうと思う。

葬儀の時にふと思い出した。祖母は夏目漱石の「草枕」が好きだった。

「草枕」だけでなく、祖母は漱石が好きだった。小さい頃はよくわからなかったのだが、今思うと確かに祖母の人生観、価値観には漱石のような視点があると思う。「余裕派」とも呼ばれる夏目漱石は、どこか世間を世俗的な感情からではなく、ゆったり余裕を持った視点で右から見たり左から見たりしながら小説の中の世界をつくりあげている。高跳的、低徊趣味的、というのだろうか。祖母も世俗や周囲に流されず、ゆったりと世界を眺め、孤高というのだろうか、自分の軸をしっかり持った人だった。

そんな祖母が一番好きだった小説が「草枕」だ。有名な冒頭はこんな感じで始まる:

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

智(ち)は理性や計算。そればかりで生きていると他人との摩擦が起きて角が立つ。情(じょう)は感情。それに棹(さお)を刺す、というのは船頭さんが川底を棹で押すように勢いをつけること。感情に勢いをつければすごい勢いで流されて大変なことになる、と。そして当然「意地を通せば」窮屈になる。

「とかくに人の世は住みにくい」で終わるこの冒頭文は日本文学史に残る有名な書き出しで、祖母が世間を眺めていた視点にも通じるな、と思っていた。

改めて祖母の葬儀の間、そういえば「草枕」が好きだったな、と思い出し、ふとそういえば「草枕」の主人公は画家であったことも思い出した。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て(くつろげて)、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。

あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。

冒頭文の続きは、住みにくい世の中に対する一つの答えになっている。住みにくい世の中だからこそ、その世をを長閑(のどか)にして、人の心を豊かにする芸術、詩歌、絵画が尊いのだ、と。

すっかり忘れていたので少々びっくりしたのだが、祖母が大好きだった「草枕」は画家が主人公で語られる西洋、東洋の芸術論でもあった。

私が学生時代に芸術を志したのも、いまだにデザインや音楽を仕事にしたり、絵を描いたり文章を書いたりするのも祖母の影響が強いのだな、と今更ながら感じた。

祖母の兄は若くして亡くなったのだが、祖母の時代に日大の法学部を卒業した秀才で文学、芸術に非常に明るかったと聞く。その兄に連れられて活動写真や舞台などをよく見たそうだ。映画館の経営にも携わったらしい。その兄の死後に様々なことがあって、家族は諸々失ってしまうのだが、祖母の周囲には美術品や骨董品が溢れていたし、祖父も浅草の貴金属職人として当時は名が知られていたらしく、いわゆる「美」の世界、芸術とは縁が遠かったわけではない。

祖母は物欲とは縁が遠かった人で常に質素だったが、物の良し悪しには敏感で、テレビを見ていても何かと立派な鑑識眼があったと思う。

祖母はいつもどこにいても余裕があった人だった。誰に会っても、どんなに苦しい時も常にしっかりとした自分の軸があり、穏やかにいれる人だった。損得で動くこともなく、どこか悟っているかのような佇まいだった。

死を迎える最後まで記憶も意識もはっきりしていて、耳が遠くなったものの昔の話をよく覚えていたし、なんなら最後まで私に説教じみたことも言ってた。そんな祖母があの世に旅立ってしまったのは寂しいが、ずっと「そろそろお迎えが来てほしい」と言っていた祖母なので「よかったね、お迎えが来て」という気持ちでお別れができた。

そういえば祖母がアメリカ留学中に私に書いて送ってきた手紙も思い出深い。だらしない私のことなのでどこにあるのかもわからないが、いつも祖母の手紙はどこか味わい深かった。それこそ「坊っちゃん」の「清」の手紙のようだった。

親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている

江戸っ子で曲がったことが嫌いな「坊っちゃん」の唯一の理解者が下女の「清」だった。そんな「清」が送ってくれたような手紙をもらった覚えがある。母には申し訳ないが、説教ばかりでなく祖母のような手紙を書いて寄こせと絡んだことも思い出した。

祖母は100歳を超えても自分で自筆の手紙を方々に送っていた。私ももらっている。自分もダメな奴だな、と思うがそれが当たり前で育ってきたのだけど返事もろくにしたことがない。最後まで甘えてしまったのだ。

母に聞いたのだが、3月に私が絵画の個展を30年ぶりに開いたことを祖母はとても喜んでいたそうだ。「あの子はやっぱり漢だ」と言ったそうだ。

絵の個展を開くことの何が「漢らしい」のかはさっぱり理解できない。祖母なりの価値観なのだろう。この話を聞いた時も何だか訳がわからなかったのだが、「草枕」を愛した祖母であったことを思い出したところでストンと落ちた。

これも有名な一節だが、草枕の中で語られる堅苦しい四角四面の世界での芸術家の存在の定義は:

して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう

常識や固定観念が欠けた、というかそんな俗っぽいことを超越した存在が「芸術家」とのことだ。そこは正直自分に欠けている部分でもあるのは自覚しているのでよく理解ができる。常識にとらわれているのであれば、絵など描く必要もない。

まだまだ祖母について語ろうと思えばいくらでも話せるのだが、まずは祖母が今まで長い間私を見守ってくれたこと。それに改めて感謝したい。祖母の亡骸を前に「ありがとう」の言葉しか出てこなかった。

人を愛し、愛された祖母のような高潔な人には自分はなれそうもないが、祖母のような人に育ててもらったことを誇りに、精一杯生きていこうと思う。

亡くなる前に「漢」だと認めてもらったこともちょっと嬉しい。

祖母と草枕を思い、これからも人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする人であろうと思う。

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