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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(第十五章)

NFTアートは、全く価値がなさそうなものに価値がつくという不思議なもの、という印象が強い。

NFTアートとして売られているものも様々だが、画像と動画にしぼって考えると、本質はメディアアートだ。

メディアアートを理解することは、NFTアートを理解することにもつながると思い、東京藝術大学の「メディア芸術史」の授業でテキストとして使用されている、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」という論考を読み始めた。

「複製技術時代の芸術作品」が収録されている本は様々あるが、解説付きのがほうが分かりやすいと思い『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を使用している。

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絵画と映画の比較(第十五章)

本章では絵画と映画の比較がなされ、大衆との関係性が明らかになる。

面白いのが、絵画は社会的な意義が低下しているので、伝統的な絵を無批判的に受け入れるのに対して、新しい絵は受け付けないという視点だ。

そうだとすると、油絵や彫刻という伝統的なフォーマットで活躍する現代美術家は、そんな不利な状況で戦っているということになる。

逆にいうと、アウラが凋落した現代でも売れている画家や彫刻家というのはよほどすごいということになる。

・芸術作品の技術的な複製可能性は、大衆と芸術の関係を変える
 ・ピカソの絵に対しては保守的
 ・チャップリンの映画に進歩的
  ・進歩的なかかわりの特徴は、体験する楽しみと、専門家として判断をくだす態度との結びつき
・芸術の社会意義の低下(例えば絵画) →批判的態度と享受的態度が分離
 ・伝統的なものには享受的となり、新しいものには批判的となる
・映画への反応を形成する場は映画館→映画への反応が表れると同時に、周囲の人の反応からも影響を受ける
・もともと絵画はひとりか数人によって鑑賞されることを前提に制作されていた
 ・昔、集団による同時的受容の対象となっていたのは「建築」と「叙事詩」
 ・現代、集団による同時的受容の対象は「映画」
 ・絵画を大衆の前に展示しても、自己を組織し、コントロールすることはできない
  ・グロテスクな映画には進歩的な反応を示すが、シュルレアリスムに対しては保守的になり、批判的となる

「絵画を大衆の前に展示しても、自己を組織し、コントロールすることはできない」という部分が難しい。

「自己を組織」とは、絵に対しての反応を決めるということだと思う。

また「コントロール」とは何をコントロールするのだろうか。おそらく、周囲に人と反応を分かち合い、集団的な反応を決めるということだろうか。

現代はコロナの影響と、配信プラットフォームの充実により、映画館に足を運人も減少しており「映画館」の立場も変わってきたものの、本章では、映画が芸術と大衆との関係を変えるのに重要な場所であり、集団的反応を醸成する場という点で「映画館」を挙げているのが興味深い。

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