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巨大な遊戯空間の誕生 - ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(第十一)
NFTアートは、全く価値がなさそうなものに価値がつくという不思議なもの、という印象が強い。
NFTアートとして売られているものも様々だが、クリエイティブコーディングで作った画像や動画を販売するつもりなので、画像と動画にしぼって考えると、本質はメディアアートだと思う。
なので、NFTアートを理解するためにはメディアアートの歴史についても理解を深める必要があるのではないかと考えた。
そのために、東京藝術大学の「メディア芸術史」の授業でテキストとして使用されている、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」という論考を読むことが役立つと考えた。
「複製技術時代の芸術作品」が収録されている本は様々あるのだけれど、解説があったほうが分かりやすいと思い『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を使用している。
巨大な遊戯空間の誕生(第十一章)
やっと第十一章までたどりついた。
本章では映画俳優が直面しているものと美学理論について解説されている。
映画俳優は、カメラに向かって「他人」ではなく「自己自身」を演じている視点は新しい。
映画俳優も、舞台俳優と同じように「他人」を演じていると思っていたからだ。
映画ではより舞台のような大袈裟な演技ではなく、リアリティーが求められることを、「他人」ではなく「自分自身」を演じるといっているのだろう。
・映画にとって重要なこと
・◯ 俳優が機械に向かって自己自身を演じること
・× 俳優が公衆に対して他人を演じること
・映画俳優がどのように変わるのかを察知したのはピランデルロ
・人格のアウラを断念して、活動せざるを得ない
・映画の究極的発展は、映画俳優を道具のように扱うこと
・舞台と映画の比較
・舞台俳優の演技の多さが大切 ↔︎ 映画俳優の演技の少なさが大切
・映画の極端な例:俳優が縮み上がるシーンを撮影するのに、本当に俳優を驚かせて撮影をする
・舞台俳優は役に没入できる ↔︎ 映画俳優は短かいシーンばかりで、役に没入できない
・これらは芸術が「美しい仮象」の王国から抜け出してしまっていることを示す事実
・「美しい仮象」の意義自体が、終わりつつあるアウラ的知覚時代に根拠づけられるという美学理論を明確にしたのはヘーゲル
・美は「精神が直接的な形態を......精神によって精神にふさわしく創造された感覚的な形態をとって、現象したもの」
・芸術は「この悪しき無常の世界の仮象と虚妄」を「諸現象の真の内実」から切り離すもの
・逆にゲーテは、古典古代の芸術観と同じ価値観を持っていた
・「美は表面にもなければ、蔽い隠された対象にもない。対象がその表面に<内在>するところにこそ、美がある」
・全ての芸術の根本現象:模倣(ミメーシス)
・模倣をする人は、関心があるものを「仮象の行為」にし、「遊戯」している
・芸術の二つの側面(仮象と遊戯)が絡まり合っている
・古い技術:魔術的方法、永続的、礼拝的価値、仮象、アウラ
・新しい技術:実験的方法、無尽蔵の貯蔵庫、展示的価値、遊戯
・仮象が衰退→アウラの凋落→巨大な遊戯空間の誕生
・特に映画の役割が大きい
後半ではヘーゲルの美学理論とゲーテの芸術観が語られ、読むペースを落とさなければ理解が難しい。
模倣には芸術の二つの側面(仮象と遊戯)が絡まり合っているという視点が面白い。
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