歴史学者のあとがきを読む

2021年11月21日・FBの投稿(韓国語)を再構成。

(歴史)学者のあとがきについて考えるこの頃。僕は、著者(学者)の心を形作り、彼を研究の道に駆った、彼らの原風景たる個人的体験を読むことが好きである。それはそれ自体としても、一つの歴史であり、史料でもあり、証言でもある。そして僕がいずれ本を書くとなれば、自分はいかなる証言と史料が残せるのか、という想像をする。


1.佐々木克『戊辰戦争』(中公新書、初版1977年)

問題があるとすれば、この戦争[戊辰戦争ー引用者]は封建社会の武士団にとって最後の戦争であり、このあと武士団は解体され、いわゆる近代社会に移り、敗者の側の武士団にとって、力による復讐戦の機会が永久に取りあげられたことである。つまり封建武士の論理による名誉回復のチャンスがついになかったのである。だから柴五郎の内面につけられた疵は決して癒されることがなかったのだ。
また過去の封建社会の内乱と違って、戦後[戊辰戦争後ー引用者]の処分でほとんど大名の国替えがなかった。このことは地方的広さで地域が固定される結果となった。敗者の群れの住む所として東北地方に新たにレッテルが張りつけられたのであった。初代秋田県令に就任した旧佐賀藩士島義勇は「当秋田僻遠の土地柄、上国の事も承わらざる処より、世間よりは諸事開け方凡そ二〇年程も相後れ」(『秋田県政史』)と述べた。島の表現の裏側には、遅れた東北であるがゆえに、新政府に刃向かったのだとする論理がある。勝者の側が見る目は原因も結果も順序はどうでもよいのである。
こうして白河以北は一山(ひとやま)百文の値うちしかないという、驚くべき蔑視が生まれて次第に通念化していき、東北地方は後進地と見下げられ、また見放されることになったのであった。この重苦しい足枷(かせ)は、かつてこの地を支配していた者ばかりではなく、かえって土地を離れがたい一般民衆の足に、じわじわと食い込んでいったのである。かくて東北の民衆は敗者の遅れた地域に住む者として、戦争によって残された大きなマイナスの遺産を背負いながら生きつづけなければならなかった。
大正六年九月八日、盛岡で戊辰戦争殉難者五〇年祭が挙行された。政友会総裁の原敬が事実上の祭主として列席した。(中略)
原は盛岡藩家老加判の名門に生まれ、一四歳で戊辰戦争を経験した。彼もまた敗戦の深い疵を負っていた一人である。原の政治活動は簡単にいえば薩長藩閥との闘いであった。薩長人が薩長人が東北諸藩を嘲笑した<白河以北、一山百文>からとった一山をわざと自分の俳号として、日々の政敵に闘志を燃やしてきたのであった。いまや彼は権力の座を目前にしていた(原内閣は翌大正七年九月成立)。
『原敬日記』には五〇年祭当日の記事をつぎのように記している。
「……青木正興は此機会に於て南部藩は勤王の素志なりしとの趣旨を明かにせんとて長文の祭文などを読みたり(中略ーこの日記の中略も以下すべて引用者による)起草し左の一文を朗読して余の戊辰役に対する観念を明にせり(中略)顧るに昔日も亦今日の如く国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、其真相を語るものなり(下略)」
原敬が声を高くして訴えたかったのは、南部(盛岡)藩も勤皇の志があったのだが、戦争に敗れたため賊軍とされてしまったのだ、ということではない。ただ一つ、戊辰戦争は「政見の異同のみ」にあったのだというところにある。たんに政治的見解を異にしただけのことで、それは原の政敵山形有朋や、反対党の憲政本党との政治的対立と同じようなものである。相対立する双方は同列で、一方が勝利したからといって敗者を処断できるすじあいのものではない。だから敗けたことをいいつまでも恥たり卑屈になることはないのだ、と説いていたのである。「政見の異同」にあるのみ、とは簡潔にして名言である。東北戦争を、奥羽列藩同盟を討幕派の物差しでしか計ろうとしない歴史書への批判として、現代においてもなお原の言葉は生彩を放っている。
原の胸中にはもう一つの意図が含まれていた。原は、五〇年祭の挙行は人々の「風教のため」になるとみていた。つまり戊辰戦争を見なおすことによって民心に活をあたえ精神を作興する、それが停滞しきった東北を自力で更生させる途であると考えていた(中略)
日本の国民は、日清・日露の対外戦争を経過し、国力が疲弊しきっていたにもかかわらず、列強の席を確保しようとする薩長藩閥政府のために、極度の犠牲的生活を強いられていた。そして、まさにこのとき<後進地東北>の問題は、ただ東北地方の民衆の問題だけではなく、<おくれた東北>を産みおとした薩長藩閥政府自らに課せられた、国家的課題ともなっていたのであった。(以上「むすび」、219~222頁)
私が生まれ育った東北の農村(著者は秋田出身ー引用者)は、戊辰戦争でかつて戦場の村となったところである。私の曽祖父も、一農民として戦争にかり出されている。私の田舎の家には、いまも鎧櫃に入ったあまり上等とは思えないヨロイ・カブトが残っている。物心ついたとき、それは埃をかぶって物置小屋の片隅に置かれていた。敗走する武士が残していったものだといい伝えられているが、その経緯はあまり確かでない。
敗者の群れが、私が子どもの頃裸足で踏んだのと同じ土の上を走り、泳ぎ遊んだ同じ川を渡って去っていったのである。こんなことからも、私にとって戊辰戦争はかなり身近なものに感じられるのである。
武士の魂でもあるヨロイ・カブトを捨てて逃亡した武士は、なんのために戦い、いかなる思いを残して去ったのか。鎧櫃に書かれた持主の名前が消されているが、そこに、敗走する武士の痛切な心情をみる。
また私の先祖のように、農繁期に戦場にかり出された農民にとって、戦争はいかなる意味を持っていたのか。彼らは決して勝者ではない。むしろ戦争の傷痕の中に生き続けたのであるから、敗者の条件を満たしているといえよう。私が敗者の側から戊辰戦争をみつめようとした理由の一端は、以上のような素朴で身近なところから出発している。(下略)(あとがき、223~224頁)
〔追記〕(中略)原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、あわせて読者の方がたに、おわび申し上げたい。一九九〇年九月九日(225頁)

最後の部分は、学者として自分自身の記述に責任をもつということはどのようなことか。1977年初版から1990年(新説が発表されたのが1990年)になるまでももっている著者の誠実さに感心したから載せた。なお、この著書は著者の最初の著書だけれど、著者の最後の著書となった『幕末史』(ちくま新書、2014年)にもまた、

私自身も(中略)誤って論じている。(拙著『戊辰戦争』中公新書、一九七七年初版。なお一九九〇年の増刷の際に、あとがきの追記で誤りだったことを記した。(中略)

とある。やはり重い。しかし、著者が限りなくかっこいい。


2.石母田正「母についての手紙」『歴史と民族の発見』(東京大学出版会、1952年)

※あとがきではないけれど、各章がある程度独立的な該当書の最終の章ではある。なお、旧字体は引用者の任意で新字体に改めた。仮名遣いはそのままにした。

※これについては、磯前順一『喪失とノスタルジア』(みすず書房、2008年)にも言及あり。

私自身の経験を申し上げることをお許しください。私は仙台の高等学校にいたとき、社会科学研究会のメンバーでもあったというそれだけの理由で、警察に引張られ、学校は無期停学になって、郷里に帰されました。その時、父は私の顔をみるなり、ひじょうに憤って、さんざんしかられました。それも親としての愛情からでしょうが、しかしその言葉のなかに、「赤」にそまることは出世を台なしにすること、それではなんのために上の学校に上げたか無意味になることなどの言葉があったので、私はそれから父を軽蔑するようになりました。父は無神論者であり、保守的な母に比較してずっと思想的には、進歩的でした。しかしこの保守的な母が、この事件についてはけっして私をしかりませんでした。かえって正しいことをやることは人に恥じる必要のないことを私に確信させました。しかし私の受けねばならない苦しみは母をひどく苦しめ動揺させました。私の気がとげとげしくなっているので、それがなごむようにといって、私の生れ故郷である札幌へ旅につれていってくれました。幼少のときから何かにつけて美しい土地として母に聞かされていた北海道を母と二人して旅した記憶は、私の生涯で忘れることのできない印象ををのこしました。この事件がなかったら、私は母というものについての認識はずい分浅薄なものに終ったろうと思います。この時から、私は正しいものに対する認識というものは、思想の進歩的或は保守的傾向によるのでなく、その人の人間性の深さによるものだということ、父は「近代的」な思想をもっていても、人間性がブルジョア的立身出世主義に毒されているのにたいして、母は「封建的」でも、自分と子供たちの人間性を外部と父の権力からまもるために、精一杯の努力をし、その苦労と抵抗によって母としての人間性と正しいものへの本能的な理解をふかめてきたのだということを確信するようになりました。あなたが、これからどのように対処されるにせよ、母の苦しみはかけがえもなく深く貴いものだということだけは忘れないで下さい。(352~353頁)
私もあなたも、自分の仕事にいそがしく、母のなげきと犠牲をつい忘れがちなように、歴史家も息子たちのー勝利にせよ敗北にせよー輝しい事業に眼をうばわれて、この古いものと新らしいものとがおそろしく複雑に矛盾して存在する、母たちの世界を忘れがちです。しかしこの母たちの世界は、ロマンチックな詩人たちのいうように永遠にかわらない性質のものではありません。それは息子たちの成長とともにゆっくりゆっくり変ってきましたし、また現在はとくに変りつつあります。土地が動く民族の歴史にたいして動かないものの典型のようにかんがえられながら、長い間の労働の成果と歴史の形かとともに少しずつ変ってきたように。(368~369頁)


3.安丸良夫『近代天皇像の形成』

富山県東砺波郡高瀬村森清。これは町村合併前の名称だが、私の生家は、この水田単作農村の中農である。(中略)
私は戸籍上は三男だが、私の生後間もなく次兄がジフテリアで急死したので、実質的には二人兄弟の次男として育った。村人の相互の呼名には、階層・性別・状況などによる複雑な使いわけがあるが、普通は長男を「あんちゃん」、次男以下を「おっちゃん」と呼ぶ。生家の屋号は「やすきゃ(安清屋)」なので、昔も今も私に対する村人の呼称は「やすきゃのおっちゃん」である。(中略)
さて、あれは私の小学校(私の入学した一九四一年から国民学校と改称し、戦時色を強めた)入学以前のことだから、一九四〇年のことではなかったかと思う。(中略)僧侶は、映画上映に先だって、恐らく戦時に相応しい訓話(説教?)をしたのだが、そのなかで、「三種の神器の名前を知っているか」と、映画のもっとも見やすい場所にまとまって陣取っている子供たちに尋ねた。村の子供たちは、公的な場では恥しがり屋だから、誰も答えようとはしない。そして、子供たちがもじもじしてしばし静寂が訪れたとき、私は突然、大声で、「しっとれどいわんがあー」
”知っているけれども言わないよお!”と叫んだのである。満場は爆笑。私は学齡前の幼児だから、子供たちとはべつの場所、つまり母の膝の横にいたのだが、もじもじしている年長の子供たちとは対照的に、幼児の方が小生意気な大声をあげたので、大笑いになったわけである。帰宅したあと、「よしょ(良夫)、ほんまに知っとったがけ?」と母に尋ねられ、ヤタノカガミ、クサナギノツルギは確かに記憶していたが、ヤサカニノマガタマという名称をはっきりとは覚えていなかったことに気づき、沢山の人の前で不当に知ったかぶりをしてしまったという罪障感をもったことが、心の片隅に残っている。
不完全にしろ、学齡前の幼児が三種の神器の呼称を覚えていたのはどのような事情によるものなのか、いくら考えても見当がつかない。(中略)また、村人には、下を嚙みそうな三種の神器の呼称などまったく無縁のことで、ただなにか難しそうなことを学齡前の幼児が覚えていたらしいというだけで素朴に驚いてしまったといえる。そのため、この小さなエピソードは、大学の教師という、村人からはその内実をおしはかりにくい職業についている「やすきゃのおっちゃん」の幼少時に相応しいエピソードとして記憶され、大げさにいえばひとつの「伝説」となってしまった。嫂(あによめ)が嫁いできたのはずっとのちのことだが、いまでも村の老人たちが彼女に私の噂をするとき、きまってこのエピソードをもちだすよいう。そのようなとき、ことが三種の神器の呼称にかかわっていたことはとっくに忘れられ、幼少期の私の小生意気な言葉だけが、懐かし気に回想される。私より年長の村の子供たちのばあいは、三種の神器の呼称は知らなかったか、少なくとも正確には知らず、もし知っていても、村の生活とはかかわりのない知識を他人の前で披露する習慣をもっていなかったのだと思う。
このエピソードは、だから、学齡前の幼児さえ三種の神器の呼称を覚えていたー天皇制イデオロギーはかくの如く深い浸透力をもっていたという証拠でもあるが、また、そんなことを記憶したり、そうした記憶をすることに内的な動機づけをもったりするのは、村の生活のなかではけっして普通のことではなかったということの証明にもなっているだろう。普通の村人は、国家や天皇制を拒否しているのではないが、しかしこちら側から国家や天皇制に過剰な思い入れをするということはけっしてない。これに対して、村の生活とはなんのかかわりもない余剰を観念にとりつかれていたのは、やがて都会へでて、大学教師などというどこか生活感覚の希薄な職業につくことになる、すこし変った幼児だったというわけだ。
いまひとつの記憶も、短く記してみよう。
私は、敗戦の日に「玉音放送」を聴いたときの記憶がない。しかし、あの日、私は家のなかでたしかに「玉音放送」を聴いたはずで、そのあと外にでて垣根のところで独りで泣いていた。国民学校五年生の私は、いっぱしの軍国少年で、戦争に敗れたことがたいへん口惜しかったのだ。ところがそこへ母がきて、”もう敗けてしまったのだから、お前が泣いてもどうなるものでもない、家へ入って早くお昼ご飯を食べろ”という意味のことをいったのである。母には、八月のはじめに入営したばかりの長男がこれで死なずにすんだという安堵の思いがあったのかもしれないし、ただ戦争に敗けたといって泣いている子供に手こずっていただけかもしれない。しかし、それはいずれにしろ、私からすれば、敗戦という驚天動地の大事件をあっさり受けいれて感情的な反応を見せない母の態度に、”どうして⁈”という驚きがあったのである。それを本書で用いた用語法でいえば、一介の庶民であり、それゆえに生活の専門家である私の母のような人間にとっては、戦争も国家も余計な闖入者で、そうした次元に囚われやすい私とは精神の位相が異っていたということであろう。母や村人たちも、戦争や国家という全体社会に自分たちが所属していることをよく知っているのではあるが、それを自分では手の届かない運命のようなものとして、なんとか受けいれて耐え、またやり過ごして生きるのである。だが、生活からはみだした余剰な観念の方に囚われて生きてしまう奇妙な少年も、村の生活の周縁部にはやはり見つけられるものなのだ。
地域や世代や具体的状況などによって、私たちの天皇制体験が千差万別なのは、当然のことである。しかし、私が幼少時を過ごしたような僻陬(へきすう)の農村にさえ、戦争の影響をまともに蒙った地域の状況に比べれば、ほとんど牧歌的な平穏さといってよいような生活にみえて、天皇制がある影を落としており、そこからより一般的な論点を展望しうるのではなかと思い、敢えて小さな私的な記憶について記してみた。(323~329頁)

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