(2)医心方 巻二十七 養生篇 用氣第四 鳳凰堂流解釈
養生要集からの引用
鹵公(ろこう)の話
人の氣は身体の中にある事から考えると、気は水槽の中にいる魚のようなものである。
水が濁れば魚は痩せ、氣が乱れれば人は病となる。
鹵公に関してはどのような人物か分からないままです。
濁るとは完全に濁っている、不用なものがあるというわけではなく、常に清濁同時にある事を指しています。
天の清らかな氣の中にも濁りが見られますが、思考が心の中を巡って定まらないことで、取捨の判断を誤ってとんでもない目に遭うようなことも濁ると言っています。
また、仙人である彭祖の話
氣を大切にする人はたとえ様々な方術を知らなくても、適切に氣を養う事さえできれば120歳の寿命を保つ事ができる。
適切に氣を養えていなければ、それだけ寿命が少なくなる。
少しでも養生の道に明るければ、240歳の寿命を得る事ができ、またその上に道を究めて行けば480歳まで生きる事が可能であると言っています。
鳳凰堂流においては大筋では同意見です。
240歳、480歳というのは仙道でのお話ですので省略しますが、
120歳が人の心が1つの身体に宿り続ける限界、身体の耐久年数だと考えています。
それ以降は、今持っている身体は自然の摂理に従って朽ちていきますが、
心が1つの身体の中に凝集された状態から、散り散りになったとしても自身の意識で浮遊し、
またある程度凝集できるのが仙人ではないかとそんな妄想を膨らませています。
そして、この考えは東洋暦学の六十甲子で循環する考え方と十干十二支に繋がります。
六十甲子(60)の陰陽=120
仏教では、六根に好・惡・平、浄・染、過去・現在・未来を掛け合わせて
6×3×2×3=108としたり、四苦八苦(4×9+8×9=108)としてたいのではないか
また、12ヶ月+二十四節気+七十二候でも108になります。
108に12を足すと120
12周期の運の巡りを全て乗り越えられる人は少ないからこそ、12を除いた数である108が煩悩として自然の巡り、外的環境による影響が108、本性が12としていたのではないかと考えています。