老子道徳経と中医学的身体観①
以前書いた、老子道徳経の鳳凰堂流解釈を再度考えながら、中医学的身体観に落とし込んでいきます。
第1回は道徳経の體道第一
道を體現するという副題がついています。(體道第一)
身体は両親が作ってくれた、現世を生きる為の乗り物。
名前もなく、行く道も分からない状態から、
ご先祖様、ご両親が道を示す為に作ってくれたもの。
身体(體)が出来てからは、自分の意のままにできているようで、実は充分に生かしきれていないものでもあります。
道は太極が繋がったもの。
太極とは、その人、その団体、その社会等の1つの枠組み(空間)と考えると、
空間が時間によって変化するものが道と言えます。
中医学的身体観に落とし込むと、先ずは脱力。
脱力することで、向かって来た人の力は吸い込み、こちらは自由に動ける。
人によって、道が違うのは当たり前。
同じ道でも見る人によって、立場によって変化する。
人が二本足で立つ場合も、立っている事実は同じでも道に法っているか、そうでないかはその人によって異なり、立っているということ自体も便宜上の話だけである。(寝ていても立っている)
従って、力みを極力排除して全体を統合することで、全体と一部が同時に感じられ、制御でき、
力みを用いる事でその微妙な変化を生み出す事ができる。
この2つ(脱力と力等)は同じものでありながら、名前が異なる。
このように同じものでも名前が違うものを玄妙さと呼び、
玄妙の中を更に区切ることで、あらゆる人が奥妙に触れることができる端緒となる。
このロジックを先ずは理解・体感・イメージ・理論化しましょうという事で考えています。
【直訳】
道の道たるべくは常の道にあらず。名の名たるべくは常の名にあらず。
天地の始めに名無く、万物の母に名有り。
故に常に欲なくしてその妙を観、常に欲有りてその徼を観る。
この両者、出を同じくして名異なる。同じくするを玄と謂い、
玄のまた玄、衆妙の門となす。
【原文】
道可道、非常道。名可名、非常名。
無名天地之始、有名天地之父母。
故常無欲以観其妙、常有欲以観其徼。
此両者者同、出而異名。
同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。
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