養生訓 巻六 醫を擇ぶ 鳳凰堂流解釈⑦
原文を現代文に改変
或人の曰く、君子醫となり、人を救わんが為にするは、まことに然るべし。
もし醫となりて仲景、東垣などが如き富貴の人ならば、利養のためにせずしても、貧窮のうれいなからん。
貧家の子わが利養の為にせずして、只人を救うに専一ならば、飢寒のうれいまぬがれがたかるべし。
答えて曰く、わが利養の為に醫となる事、たとえば貧賤なる者、祿のため君につかうるが如し。まことに利祿のためにすといえども、一たび君につかえては、わが身をわすれて、ひとえに君のためにすべし。
節義にあたりては、恩祿の多少によらず、一命をもすつべし。是人の臣たる道なり。
よく君につかうれば、君恩によりて、祿は求めずして其内にあり。一たび醫となりては、ひとえに人の病をいやし、命を助くるに心専一なるべき事、君につかえてわが身を忘れ、専一に忠義をつとむるが如くなるべし。
わが身の利養をはかるべからず。然れ共よく病をいやし、人を救わば利養を得る事は、求めずして其内にあるべし。只専一に醫術をつとめて、利養をばむさぼるべからず。
鳳凰堂流意訳
君子医となり、人を救う為に医を行う事が本道である。
もし医となっても張仲景、李東垣などのような富の豊かな人、貴い位の人であれば、自分のためにしなくても貧窮で憂う事はない。
貧乏な家の人が自身の利益の為に医せす、ただ人を救う事に専念すれば、食べ物も家もないような状況になってもおかしくない。
この問題に対しては次のような考え方が大切である。
自身の利益の為に医となる事は、たとえば貧乏な人が金のために金持ちや仕事に従事するのと同じである。
お金の為と言っても、一旦仕事を始めれば、自身の事は忘れて、仕事に邁進する事が必要である。
給料のた多少に関係なく、全身全霊で従事する事が必要である。これが人が人に仕えると言う事であり、一つの道である。
よく仕事に従事し、人に仕えれば、金は求めなくても入ってくる。
同じように一旦医となったら、ひとえに人の病をいやし、命を助ける事に心を尽くし脇目もふらない事は、仕事に邁進して君につかえてわが身を忘れ、専ら忠義に努めているのと同じである。
自分の利益を考えてはいけないが、よく病をいやし、人を救うば利益を得る事は、求めなくても向こうからやってくる。
このような考え方の下に、ただ医に邁進し、自身の利益を貪ってはいけない。
鳳凰堂流解釈
情けは人のためならず
全て循環します。
利を求めれば、我利我利亡者となり、
仁を求めれば、世間とは異なっても魂は磨かれます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?