養生訓巻第二総論下 鳳凰堂流解釈㊺
原文を現代文に改変
臍下三寸を丹田と云う。腎間の動氣ここにあり。
難経に、臍下腎間動氣者人之生命也。十二經の根本也と言えり。
これ人身の命根ある所なり。
養氣の術常に腰を正しく据え、眞氣を丹田に収め集め、呼吸を鎮めて荒くせず、
事にあたっては、胸中より微氣をしばしば口に吐き出して、胸中に氣を集めずして丹田に氣を集むべし。
この如くすれば氣上らず、胸騒がずして身に力あり。
貴人に對して物言うにも、大事の變に望み忙わしき時もこの如くすべし。
もし、やむを得ずして人と是非を論ずとも、怒氣に破られず、浮氣ならずしてあやまりなし。
或いは藝術をつとめ、武人の槍太刀を使い敵と戦うにも、皆この法を主とすべし。
これ事をつとめ氣を養うに益ある術なり。
凡そ技術を行う者、殊に武人はこの法を知らずんばあるべからず。又道士の氣を養い、比丘の坐禅するも、皆眞氣を臍下に納むる法なり。これ主静の工夫、術者の秘訣なり。
鳳凰堂流意訳
臍下三寸を丹田と言う。腎間の動氣がここにある。
難経に、臍下腎間動氣なる者人の生命なり。十二經の根本なりと書かれている。
これ人の身における命の根っこがある所。
養氣の術としては、常に腰を正しく据え、眞氣を丹田に収めて集め、呼吸を鎮めて荒くせず、
行動する際には、胸中から氣を僅かずつちょこちょこ口に吐き出して、胸中に氣を集めないよう丹田に氣を集めるべきである。
このようにすれば氣は上らず、胸も騒がずに身体に力がでる。
偉い人に物言う時でも、大きな変化に望み忙しい時もこのようにすると良い。
もし、やむを得ず人と議論して結論を出さなくてはいけなくなっても、怒氣に破られず、氣が浮つくような事がないので間違える事がない。
また藝術を行う人や武人で槍太刀を使い敵と戦う場合にも、全てこの法を主とする。
これは何かを行いながらも氣を養う事に益がある術である。
技術を行う人、特に武人はこの法を知らなければ話にならない。
又道士が氣を養ったり、比丘が坐禅するのも、全て眞氣を臍下に納める法である。
これは主静の為の工夫であり、術者の秘訣である。
鳳凰堂流解釈
具体的な納気(のうき)、練気の手法について書かれていますが、身体を使う専門家だけでなく、あらゆる人がこの腹式呼吸を基準に様々な行動、意思決定に繋げる第1段階となります。
東アジアでは、道教、仙道、気功等の修練法に小周天があり、インドではチャクラの意識レベルの調整がありますが、全ての基本となるのが呼吸です。
現代ではここすらできていない人がほとんど(腹式呼吸はできても、動いた途端に崩れる)なので、生きているだけで調子が崩れてもおかしくありません。
また、通常の生活ができているからと言って、これができているわけでもありません。