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養生訓 巻第七 用薬 鳳凰堂流解釈㉕


原文を現代文に改変

中華の法、父母の喪は必ず三年、これ天下古人の通法なり。

日本の人は體氣、腸胃薄弱なり。この故に古法に朝廷より期の喪を定め給う。三年の喪な二十七月なり。期の喪は二月なり。これ日本の人の稟賦の薄弱なるにより、其宜を考えて性にしたがえる中道なるべし。

然るに近世の儒者、日本の土宜をしらず、古法にかかわりて、三年の喪を行える人、多くは病して死せり。喪に耐えざるは古人これを不孝とす。

これによって思うに、藥を用ゆるも亦た同じ。

國土の宜を計り考えて、中夏の藥劑の半を、一服と定めば宜しかるべし。

然らば一服は一匁より二匁に至りて、其内人の強弱病の輕重によりて多少あるべし。

凡そ、時宜をしらず、法にかかわるは愚人のする事なり。俗流にしたがいて道理を忘るるは小人のわざなり。

鳳凰堂流意訳

中華の法では、父母の喪は必ず三年行う。これが世の中に通じている古人の法である。

日本の人は身体の気、消火器が薄弱である。その為、古法では朝廷から期の喪を定められていた。三年の喪は二十七月。期の喪は二月。これが日本の人が元々持っている気が薄弱な為に、その良い時期を考えて性質にしたがった中道である。

しかし近世の儒者は日本の土宜をしらず、古法に従って三年の喪を行う人の多くは病死している。喪に耐えられない事を古人は不孝としている。

ここから考えると、薬を用いるのも同じである。国毎に良い状況を計り考えて、中夏の薬剤の半分を一服と定めたのが良い。

そうすると一服は一匁から二匁となり、その中で、また人の強弱、病の輕重によって多少変えていく。

時や土地の変化を考えず、法や型だけに拘るのは愚人がする事である。

俗流にしたがって道理を忘れるのは小人の技である。

鳳凰堂流解釈

三因制宜の大切さが書かれています。

古典も現代のエビデンスもただの型。

型はまず守り、次に破り、最後は離れるもの。

最近は型の経穴の正確性は無視したり、鍼すらせずに診る事もあります。

思考も技も自由に生きたいものです。

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