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養生訓巻第一 貝原篤信篇録 総論上 ㉕ 鳳凰堂流解釈


[原文を現代文に改変]
 ある人は疑って言った。

養生を好む人は、ひとえに我が身を重んじて、命を保つ事ばかりしている。しかしながら君子は義を重んじる。

従って義に際しては、身を捨て命をおしまず、危うきを見ては命を授け、難に望んでは死をも厭わない。

もし我が身をひとえに重んじて、少ない髪や皮膚まで損ない破らないようにしていると、大きな節目に望んで命を惜しみ、義を失うと思うと言っている。

これに答えると、あらゆる事には常と変がある。

常とはいつも行っている事であり、変化があればいつもとは異なる変を行う。

そういう時に義に従うのである。

何もない時には、身を重んじて命を保つと言うのが常に居る道である。

大きな節目に望んで、命を棄ててかえりみないと言うのは変にあると言う意味である。常に居るの道と変にある義と、同じではないことの区別ができれば、この考えに疑いは起きないだろう。

君子の道は時宜に適い、事変に従う事を良しとする。

例えば夏は薄着、冬は重ね着をするようなものである。

常は通常、平穏な時であり、変化した時とは関係ない。

常の時は身を養い、堅固に保てば大きな節目に望んで強く戦いを励み、命を棄てる事ができ、その時に身体が弱ければ勝てないのも道理である。

従って、常の時にはよく気を養えば、変に望んでも勇があるのである。

鳳凰堂流解釈
常と変。これは東洋医学でも出てくる言葉です。

教科書を常とすれば、実際(臨床)は変の集まり。

基準と実際の応用はその場その場で見合わせるべきで、貝原益軒は養生訓で養生の基準を提示しているに過ぎないと言っています。

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