老子道徳経と中医学的身体観八十一
副題 顯質
中医学的身体観としては、
身体を太極とし、上下、前後、左右等の二に分け、その動き、変化を観る事が東洋的な哲学の原理原則。
この中には陰陽、五行も含まれるが、中国医学では陰陽、五行のみとなり、太極と八卦が失われている。
わずかに奇経八脈に名残があるが、奇経とされた時点で端に追いやられた感が否めない。
中国医学を礎としながら、自身の体験、経験、思考、イメージを持って、自分だけの無極を作る事が一端の完成となる。
鳳凰堂流解釈
大きな視点から見ると、道徳経自身が太極となるが、この太極は道であり、一であり、有であり、これを型としてそれぞれの型、生き様を生きる事が良いのではないだろうか。
本質には善悪美醜はないが、その人が行く道、その光が指す方向は先ずは一定の空間となる。
一定の空間を指し示したいのではなく、この道理を示したいからこそ、敢えて善悪、真仮を語り、その最後に語らずとも道と言う『一』、その道も人によりそれぞれと、體道第一に帰る事で、道徳経八十一篇自体が循環し、道となる。
鳳凰堂流意訳
真実の言葉は美しくなく、美しい言葉は真実でない。
善い人はうまく話せず、うまく話す人は善い人でない。
真を知る人はひらけかさず、ひらけかす人は真を知っているものではない。
良く考える人は何も蓄えず、全ての力を人のために出し、かえって豊かになる。
天の道は万物に利益を与え、害を与えることはない。
聖人の道は人と争う事がなく何かを成し遂げる。
直訳
信言(しんげん)は美ならず、美言(びげん)は信ならず。
善なる者は弁ぜず、弁ずる者は善ならず。
知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。
聖人は積まず、既(ことごと)くもって人のためにしておのれいよいよ有し、既(ことごと)くもって人に与えておのれいよいよ多し。
天の道は利して害せず。聖人の道はなして争わず。
原文
信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積、既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道、利而不害。聖人之道、爲而不爭。