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養生訓巻第一  貝原篤信篇録 総論上 ㊲ 鳳凰堂流解釈

俗人は欲をほしいままにして礼儀に背き、氣を養わずして天命を保たず、理気二ながら失えり。仙術の士は養氣に偏にして道理を好まず。故に礼儀を捨ててつとめず。陋儒は理に偏して氣を養わず。修養の道を知らずして天命を保たず。この三つはともに君子の行う道にあらず。

鳳凰堂流意訳
一般の人は欲を欲しいままにして、礼儀に対して無頓着で、反対の事をしていたりする。氣を養う事を知らないので、天命まで身体が持たない。理気二元論ではあるが、そもそも氣一元論から二つに分かれている。この理も氣もどちらも離して考えることはできないのに、どちらか一方を取捨すれば当然どちらも失ってしまう。その為、礼儀を捨てるという事は養生に対しての努力も捨てるという事になっている。

学識、見聞の高い人は理ばかりに偏り、氣を養う事が少ない。修養の道を知らないので天命を保つ事ができない。

このような方法、
1.欲を欲しいままにして全てに無頓着、
2.修養ばかりして理を詰めようとしない、
3.理論先行して修養せず、頭で分かったつもりにだけなっている。

と言った三つの流れは本当に知行一致した大人が取るべき道ではない。

鳳凰堂流解釈
氣一元論、理気二元論に関しては、長くなる為、割愛しますが、全て何かと繋がり、循環している事を考えると、理論とエネルギーも表裏一体でなければどこかで破綻します。エネルギー、スピリチュアル系では感覚、感性に優れているが、理が疎かにされがちで、理論系ではシステマティックであっても実際の運用上では最終的に破綻する事が多いという点でも相似しています。全てに中庸で、バランスを持つ。難しいですが、いつまでも自分の心と身体に向き合う為の機会と思うと楽しいものです。

養生訓巻第一 総論上 終

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