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老子道徳経と中医学的身体観㉑


副題 虚心

身体は心の容れ物として、ただ心に従っている。心主腎従。ただ、現世にいる限りは身体という限界がある。

身体の限界を超える為には、先ず心を1つにし、更に無にした後に見えて来るものがあります。

心腎相交する前に、心を清らかに、腎をあるがままの物として再認識する。

虚心坦懐と言う言葉が遺っていますが、中医気功学では調心の部類に入ります。

心を調える為に、身体、息を調える。

水火既済、水火未済。天一水を生み、地二火を生む為の準備。

ここから自分なりの道を歩いて行けば、自ずから今の人生の方向が見えてきます。

直訳
孔徳(こうとく)の容は、ただ道にこれ従う。

道の物たる、ただ怳(こう)ただ忽。忽たり怳たり、その中(うち)に像あり。

怳たり忽たり、その中に物あり。

窈(よう)たり冥(めい)たり、その中に精あり。

その精甚だ真、その中に信あり。

古より今に及ぶまで、その名去らず、もって衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。

われ何をもって衆甫のしかるを知しるや。これをもってなり。

大いなる『徳』の中身は『道』に一致している。『道』というものは目に見えず、漠然としている。だがその漠然とした中に実体がある。暗く深い、その中に微かな精気がある。この精気は具体性があり、真実がある。 古より今に至るまで,その名は消えず、それにより万物の始めを知ることが出来るのだ。私がどうして万物の始まりの有様を知るのか、その根拠はここにある。

原文
孔徳之容、唯道是從。道之爲物、唯怳唯忽。忽兮怳兮、其中有像。怳兮忽兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉。以此。

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