なんでも「なんまんだぶ」
ツバキングです。
久保ちゃんの記事を待ってらっしゃる方、多いだろうに、全然書きませんねー。
きっと忙しいのでしょう。
さて、僕の父の実家は浄土真宗で、僕も浄土真宗大谷派から法名「釈 成量」という名をもらっています。
失礼を承知でいうと、敬虔な真宗門徒とは言えないかもしれませんが、子どもの頃から浄土真宗がそばにある生活でした。
(この写真は父の実家。右が僕で左は妹です。奥にいるのは当時の住職だった叔父です)
だから手を合わせると「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と呟きます。
なんまんだぶとは、「南無阿弥陀仏」の口語的なもので「阿弥陀如来に帰依します」という意味を持ちます。
帰依なんていうと、とても宗教的で現代人にはきな臭く感じるかもしれません。
実際に僕にもそうした感覚はあります。
ニュアンスとしては「阿弥陀さんに、めっちゃ親近感持ってます」が近いのかもしれません。浄土真宗は梅原猛をして「宗教にトドメを刺した」というくらい、宗教っぽくありません。
そもそも親鸞は「我、弟子ひとり持たずさぶらふ(私には1人も弟子なんていません)」と語るくらい「宗派を開いた」という意識を持っていないので、空海や法然などは〇〇宗の「開祖」と言われますが、親鸞は浄土真宗の「宗祖」としか言われないほど。
親鸞はひたすら、阿弥陀如来と師匠法然の「ファン」でしかないという意識で生きていました。
だから、何かを祈願したら叶うなんて宗教っぽいことはほとんど言いませんでした。
祈願や修行ではなく「報恩」の心から起こる念仏なのです。(お、一気に宗教っぽい)
報恩ってなにか。僕の感覚で親鸞を解釈しながら言うと「僕みたいなゴミ人間なのに、なんとかギリギリ不幸にならずやってます。すんません!そしてありがとう!」的な感じ。
この記事、真宗のお坊さんが読んだらブチ切れるかもしれませんが、あくまで僕個人の見解です。
とにかく、この「こんな僕に、すんません!ありがとう!」が僕の肌には合います。
そんな気持ちで僕は「なんまんだぶ(南無阿弥陀仏)」と口にします。
ただ、この「ホーコク」でもどこかで話したかもしれませんが、僕は宗派に関係なく仏像が好きです。
なので、阿弥陀如来に限らずたくさんの仏さんに感動しています。
そしてそれらは、鑑賞物ではなく祈りの対象としてここまで残されてきたものなので、しっかりと手を合わせます。しかし、その時に思わず阿弥陀如来じゃない仏さんの前でも「なんまんだぶ」と心で唱えてしまうのです。
なんなら、子どものころは"いただきます"や"ごちそうさま"の合掌のときも、「なんまんだぶ」とつぶやいていたように思います。
もうクセというか生活みたいなもんなので仕方ないかなとも思います。
薬師如来の御前では「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と真言を口にしてみたこともあります。
でも、なんとなく違和感があるので、間違っているのは承知で「なんまんだぶ」と、手を合わせてしまっています。
いいのか悪いのかわかりませんが(多分悪い)、僕の心が腑に落ちるのは今のところこれなので、しばらくはきっと続いていくでしょう。
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