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連想は、一つのポケットにしまうこと。あるいは、小松左京と氷山のライトブルー
「なんでそんな色々覚えているんですか」という質問を受けることがよくあるので、「水」をめぐるモチーフの記憶を例に、その問いに答えようとした文章です。
私の記憶と発想のシステムの一部について、少しは言語化できた気はしますが、とりとめのない連想のうわ言がエッセイになったのだと思った方が読みやすいのかもしれません。
小松左京・高階秀爾『絵の言葉』の〈ブルーの巨大な氷〉
たとえば南極の氷山で、まるでライトブルーのインクを氷にしたようなのがある。カラー写真なんかで見ていた時には、光線の加減でそう映っているのだろうぐらいに思っていたのが、まさにブルーの巨大な氷を目の前にした時には、それを見た驚きとショックが、どうしてだか知らないけれども、自分が生きていることの証明みたいなものになっている。
美術史家の高階秀爾との対談で、小説家の小松左京は、凍れる水を目の当たりにしたときの率直な驚きを口にしている。美術についての対談で、わざわざ「氷山の青さ」について語る必要などない。宛先違いもいいところだ。
しかし、こうして必要性を超えて語っている様子は、氷山の青さから受けた衝撃がどれほどだったのかを饒舌に伝えてくれている。
彼が語っているのは、美学で「崇高(sublime)」のことだとひとまずは理解できる。「崇高」とは、壮大なものを目の当たりにしたときの慄きを伴うような美的経験である。引用文を読んでみても、彼の言葉はストレートに「崇高」の問題として論じることができる。それは間違いない。
しかし、これですべての説明がつくわけでもない。文章をよく読むと、小松は、既に知っていることを目の当たりにして驚いている。このことの説明は、「この体験は『崇高』って言うんだよ」と指摘しただけで終えられるものではない。
氷山の青さや巨大さについてはずっと前に知っていたし、実際目の当たりにしてもやっぱりライトブルーだったしデカかった。予想通りだったにもかかわらず、なぜ彼は驚いたのだろうか。
そして、そうした驚きをなぜ「生きていることの証明」などという大袈裟な言葉と結びつけねばならなかったのか。
つまるところ、なぜ小松左京は氷山のライトブルーに衝撃を受けたのか。
一見すると単純な文章ながら、よくよく考えるとよくわからないことだらけだ。
ポケットにしまった連想たち
小松左京の氷山語りに引っかかりを覚えたのは、私が蓄えてきた連想に似たものを感じたからだった。
国民的なSF作家であり、万博のプロデューサーを務め、知識人を向こうに貼って饒舌に議論できる博覧強記の人だった小松左京。その彼が、すでに知っていたはずの氷山の青さや巨大さに驚嘆し、生きている実感を得たとは一体何事なのか。このエピソードがどうにも気になるので、私はそれをポケットにしまった。
記憶の断片が持つポテンシャルが似ていれば、それらを束ねて片づけられるような引き出しか、ポケットのようなものを私は持っている。収蔵されているものの印象と近しいものを感じ取ったら、本、絵、映像、会話などからその部分を切り取り、それを該当するポケットに入れる。その映像的記憶が、どういう「意味」へと転がるポテンシャルを持っているのかを直観的に察知して、それに従って分類する感じ。
たくさん本を読んでいると、異なる文脈にいたはずの言葉やイメージが互いに惹かれ合うのを感じることがある。全く違う見た目をしているのに、ちょっとした共通点だけで、言葉やイメージたちが互いを引き寄せる。そうやって磁力のように引き合う断片は、まとめて同じ場所に入れておくのがいい。それが、「連想は一つのポケットにしまう」ということだ。
コレクションが首尾よくいきさえすれば、集まったもの同士が絡まり合って一つの形にまとまることがある。このとき、あるものから読み取ったことが、別のものにも適用できるようになる。互いが互いの説明になるのだ。
小松左京と、巨大な氷山のライトブルー。この語りの謎を解くために、これが入っていたポケットの中身をひっくり返し、順番に眺めていくことにしよう。
このポケットには、小松左京から始まって、村上春樹と斉藤倫を経て、『アンダーカレント』や『違国日記』までが入っている。まずは、村上春樹から。
村上春樹『スプートニクの恋人』の〈海に流れ込んでいく水〉
まず最初に取り上げたいのは、村上春樹の『スプートニクの恋人』。あまり水の印象はないかもしれないが、実は終盤に川と海の話が出てくる。個人的には、初読時から印象に残っている。
小学校教員をしている主人公が、複雑な家庭事情を持つらしい「にんじん」というあだ名の子どもに、こう話しかけた。
「ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさん水が海に流れ込んでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れ込んでいくのを眺めたことはある?」
にんじんは答えなかった。
「ぼくはある」とぼくは言った。
にんじんはきちんと目を開けてぼくの顔を見ていた。
「たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてこんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。君も一度見てみるといいよ。」
孤独と、海に流れ込む水とが等値されている。『スプートニク』が描くのは、水が孤独の印象と分かちがたく結びついているさまだ。川のそばで生まれ育ったこともあるのだろうが、流れる水の轟音を聴くとき、「ひとりぼっちだ」という感じがするのはよくわかる。
水の轟音を感じるときの孤独と似たものが、小松左京の語りの中にもある。冒頭で示した引用の直前で、小松は、自分の肉体のスケールで体感することによって生まれるものについて語っている。
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