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ホツマ標(しるべ)~ホツマ読み解きのへそ~④ 「キツヲサネ」とシナ五行 <126号 令和5年4月>
本誌123号でホツマの『五大』とシナの『五行』の比較を考察しました。その関係を、次の図式で考えるとわかりやすいと思います。
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ホツマの五大(万物の構成要素)は、「あ空・い風・う火・え水・お土」でとらえられていますが、それは、「キツヲサネ」でも示されています。
即ち「キ風・ツ火・ヲ土・サ空・ネ水」です。キツヲサネは方角概念なので、五大要素が東西央南北(キツヲサネ)に配分されます。
ところで、シナの五行は、元々は天体概念でした。シナ五行の色の配置は惑星の色に基づいていると思われます。火星は燃える赤で、土星は黄色、水星は月に近い灰色、木星は年輪のある星、金星はそもそも黄金色と認識されていました。
我が国からシナへ陰陽五大説が伝わると、天体概念である「五星」にそれを当てはめようと考えて、「風・火・土・空・水」を「木(風)・火・土・金(空)・水」に割り当てたのです。「土」は大地で、「地球」と置き換えられることから、「木・火・地・金・水」と惑星の公転半径の大きさ順と適合するので、すんなりと受け入れられたのでしょう。
しかし、方角は、日本では東西南北なのに、シナではトン・ナン・シャ・ペイなので、キツサネと「西」「南」が倒置されてしまいます。(上段下の図)
その後、シナでは戦国時代になって、思想家の猟官運動が激しくなり、鄒衍(BC三世紀)が、王朝交代を五徳の推移で解く『五行説』を打ち立てて影響力を発揮したために定着しました。
それが、「木・火・土・金・水(相生)」の新解釈ともいえる「土・木・金・火・水(相剋)」です。
シナでは、五行(元の五大)に「循環/対立」という新解釈が付与されて、様々な「五行配当」が生み出されていきます。
これが、律令時代の日本に再流入してきて、陰陽寮で学ばれることになるのです。
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前回あげた、シナ陰陽五行説と本朝陰陽五大説の比較論の続きです。その要点は、「方角の違い」と前述しましたが、「キツヲサネ」という本朝古来の方角概念で読み解きました。
シナにおいては四方で巡りを認識しますが、本朝では八面で巡りを認識します。「キツヲサネ」という本朝の方角概念では、「ヲ=中央」を中心として東西と南北が「陰陽として配置」される関係を重く見ます。
一方において、巡り、すなわち循環概念では「トホカミヱヒタメ」の八面の巡りを重く見ます。八面の巡りは「二重循環」で「左めぐり(現代用語では時計回り)」となります。
「二重循環」で「左旋」であるのは、巡り=循環をいわゆるトーラス構造、進行性らせん構造として捉えていたからだと考えられます。しかし、トヨケ神が見いだしたこの「時空概念=宇宙構造=生命原理」は、あまりに深遠で、正確に解釈できることは稀だったのでしょう。モトアケの哲理を極める必要があるからです。
他方において、シナの五行説は、キツヲサネを木火土金水の天体概念に誤訳し、それを春秋戦国時代の要請に合わせて「勝敗循環説」にこじつけることで成立しました。そして、それは学説的に成功を収めます。権力者に気に入られる簡易さがよかったのでしょう。
残念ながら本朝の太古の叡智は、漢字の国字化とともに失われ、幻と化しました。失われた幻を追い求める道士や陰陽師によってシナの陰陽五大説が逆輸入され、ホツマの叡智はさらに水底に沈むことになったのです。
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話と、まったく関係ありませんが、、、
↑ ぶっ飛び論 として実に興味深い♡ もちろん「あなた次第」です♡